🗓 2020年07月25日
吉海 直人
八重の同志社葬の折、読みあげられた略歴には、「刀自は晩年茶道を嗜み」(『追悼集Ⅴ』52頁)云々とあったが、八重と茶道との関わりはもっと早かった。ここでは八重と茶道の関わりについて見てみたい。
遡れば山本家は茶人としてスタートしていたとされている。会津藩主蒲生氏郷は千利休が切腹させられた後、千少庵(妻は利休の娘)を会津に招いて保護している。もしこの時氏郷が救いの手を差し伸べなかったら、千家は断絶していたに違いない。そういった経緯もあって、会津藩では代々茶道を守ってきている。八重の先祖とされている山本道珍も、保科正之に茶道頭として仕えていたとされている(会津茶道の祖)。当然、八重も茶の嗜みがあったと思われるが、残念なことに茶に関する会津時代の八重の記録は一切見当たらない。
正式には1894年(明治27年)から、裏千家十三代家元圓能斎に茶道を習っている。それ以前、女紅場で圓能斎の母・猶鹿子と同僚だった縁で、茶道に親しむようになったという説もあるが、残念なことにそれを証明する資料は残っていないようである。むしろ日赤篤志看護婦の活動に参加したことで、ようやく八重は茶道ができる社会的地位を獲得したのではないだろうか。
茶道就執心今度入門之儀令許容依而許状如件
明治廿七年五月八日 千宗室(花押)
新島八重子殿
と書かれている。翌年には十二代家元又玅斎から「茶通箱」(初級)の許状を授かっている。習い始めてからは相当茶道に入れ込んだようで、1898年(明治31年)6月には早くも「真之行台子」(上級)を授かり、茶道の教授も行えるようになっている。
それもあって、多くの人から借金して茶道具を買い込んだと悪口めいたことまで言われている。たとえば京都会津会の秋山角弥氏は、「記憶力の非凡なおばあ様」の中で、
(『追悼集Ⅵ』385頁)
と証言していた。もちろん秋山は八重を批難しているのではなく、記憶力のよさを称讃しているだけである。茶道を極めるためには、それくらい出費が必要なのではないだろうか。
そして八重は明治43年7月4日に「新島宗竹」という茶名までいただき、さらに自宅を改修して茶室を普請している。その茶室には円能斎自筆の「寂中庵」という扁額が掛けられている。そこで八重は月釜を掛けるだけでなく、女学校の生徒達にも茶道を教えるまでに至っていた。
また喜寿の年の蘇峰宛の手紙(大正10年11月6日)には、
と記されている。蘇峰からの援助のお蔭で人並みに茶会を開くことができたというのである。
さらに1923年(大正12年)には、「奥秘大圓傳法」まで授かっている。こういった茶道界における女流茶道家としての八重の活躍も無視できない。それがあって今日のように茶道が女性に開放されているからである。という以上に、八重にとっての茶道は単なるお稽古事ではなく、社会活動・女権獲得の一環だったのかもしれない。同志社において、もっと茶道が盛んに行われてもいいのではないだろうか。
なお八重は茶道だけでなく生け花も習っており、1896年(明治29年)4月には池坊専正から門弟許可状を授かっている。