🗓 2020年07月18日
吉海 直人
そのことは明治21年の12月に神戸の和楽園に夫婦で保養に行っている時、広瀬宰平が見舞いに来て、
(『新島八重子回想録』)
と言っていることからも察せられる。この折はまだ八重も手紙をやめさせていなかったようである。
八重が厳重に襄を見張っていたことは、卒業生の加藤延年が、
(追悼集Ⅵ386頁)
と証言していることからも納得される。「三島総監」というのは、当時の警視総監三島通庸のことである。とはいえ、襄にしてもおとなしく八重のいうことを聞くような人間ではなかった。当時神学校の学生だった丹羽清次郎の証言によれば、襄は八重の監視の目をかいくぐって、
(『新島先生記念集』79頁)
と、英文の手紙を生徒に届けている。ここでは八重のことを「巡査」と称している。
また英文の手紙にも同様のことを書き送っていた。本井康博氏の『ハンサムに生きる』から日本語訳を引用すると、
(新島襄全集⑥316頁)
・彼女はまるで警察官のようで、働き過ぎないように私を見張っています
(⑥333頁)
・数分間、この手紙を書くために、たった今、彼女を使いに出しました。妻が戻って来ました。書くのを止めるように言います。
(⑥334頁)
となっている。八重は手紙だけでなく、来客も断わっていたようだ。そのため襄は八重に用事を頼み、八重不在の短い時間に急いで手紙を書いている。まるで八重と襄の知恵比べである。
英文で書いているのは、筆で書くよりも短時間に書けるからであろう。ある時期など赤インキでしたためた書簡も複数残っている。これは青(黒)インキを八重に取り上げられたからかもしれない。
結局、襄の手紙好きは死ぬ直前まで治らなかった。重病でありながら八重を大磯に呼ばなかったのも、姑の看病をしてもらうというだけでなく、本音としては思う存分手紙を書きたかったからではないだろうか。