🗓 2020年07月11日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

村上元三著の「自由を護った人─放送劇台本─」をご存じだろうか。これは昭和22年の『高等国語二下』に、教材として掲載されているものである。そこで主に教科書を扱う福島の古本屋にメールで問い合わせてみたところ、すぐに「複数の在庫有り」という返事が返ってきた。便利な世の中になったものである。「自由を護った人」が掲載されていることを条件に、在庫しているものを全部送ってもらったところ、どの本にもちゃんと掲載されていた。古い教科書ということで、一冊500円という非常に安い買い物であった。
 内容に関しては、1921年8月27日に八重が広津一家と安中を訪れた際、襄の思い出話を請われ、かつて襄から聞かされた函館埠頭の一件を語ったものである。その要旨というか口述筆記されたものが、「上毛教界月報」(1921年9月15日)に掲載されたことで、村上氏はそれを資料として活用できたのであろう。もちろん「自由を護った人」とは新島襄のことである。
 ただし放送劇台本ということで、虚構を交えて面白おかしくドラマチックに仕立てられている。そもそも新島襄・八重夫妻の外に、柴英次郎という会津若松出身の若い新聞記者とその妻・柴きぬ子が登場しているが、この二人はドラマ用に創作された架空の人物である。もちろん会津藩出身の「柴」といえば、柴太一郎・四郎・五郎兄弟がすぐに想起される。中でも柴四郎は「東海散士」というペンネームで、八重の和歌が掲載されている『佳人之奇遇』を書いた人なので、モデルとしてはもってこいである。
 さて冒頭の状況説明には、

明治24年秋、群馬県安中教会における八重子未亡人の追憶談の中に、情景として、明治20年夏の北海道函館埠頭および明治22年春の京都烏丸の新島家、二景を挿入する。

と書かれていた。これを見て、あれ何か変だなと思った。八重は襄の一周忌には安中を訪れていないからである。明治20年夏の北海道旅行は事実だが、これを安中で語ったのは下って大正10年、つまり襄没後31周年の時であった。するとここには30年の誤差が生じていることになる。
 ところでドラマにおける柴英次郎との出会いは、柴の方からが八重に向かって「山本覚馬のご令妹ですか」と尋ねたところから始まっていた。八重が「そうです」と答えると、柴は「では、私は幼少の時、奥様と一つ釜の飯を食った人間であります」と、自身の体験を語った。八重の人生に沿って、鶴ヶ城に籠城した者同士として設定されているわけである。さらに「私は六歳でしたが、会津娘子じょうし軍の花形、山本八重子様の名とお姿、記憶しております。あのときの奥様は、髪を短く切られ、城内の男子に伍して、大砲を打っておられたお姿、幼な心の印象に強く残っています」と、八重の勇姿が印象的だったことを話す。この「山本八重子」は「川崎八重」が適切であろう。モデルの柴四郎は、当時16歳で白虎隊の一員だったので、ここでも10年のズレが認められる。
 この話の中で、同志社にとって無視できない最大の事実誤認がある。それは末尾付近に、

新島が生前、あれほど努力をしておりました同志社大学の開校は、ことし三月、その実現を見るにいたったのでございます。

とあるところだ。「ことし」とはドラマでは明治24年のはずだから、その年、同志社政法学校こそ開校されているものの、大学になったのはそれから20年以上も後のことである。村上が「同志社大学設立之旨意」を参考にしたことで、こんなに早い開校にしているのかもしれない。
 この台本が実際にラジオで放送されたのかどうか定がではない(知るすべもない)。少なくとも昭和25年まで4年間教科書に掲載されていたことは確認できたので、多くの人に読まれたことは間違いあるまい。新島夫妻のことや同志社のことが教科書に掲載されたのはありがたいが、ここまで創作が入るとちょっとやっかいである。だから声を大にして、このドラマを再現してもらいたいとはいい出しにくい。
〔注〕著者の村上元三氏は、直木賞作家として有名な人である。多くの小説を著しているが、この「自由を護った人」のことは著書目録などでは一切触れられていない。