🗓 2020年07月04日
吉海 直人
NHKが大河ドラマ「八重の桜」を放映するにあたって、困ったことが一つあった。それは何かというと、八重の伝記が皆無だったことで、五十回分のドラマの脚本が容易には仕上がらなかったことである。
それはいわゆる大河本も同様であった。特に八重は山本覚馬の妹・新島襄の妻という隠れた存在だったので、人生を語るに足る資料が不足していた(当時、八重の書簡類など誰も調査していなかった)。幸い八重は戊辰戦争(鶴ヶ城籠城)や新島襄のことを以下のような懐古談として残しているので、それがわずかな手掛かりであった。
1「男装して會津城に入りたる當時の苦心」婦人世界4巻13号・明治42年11月
2「家庭の人としての新島襄先生の平生」婦人世界6巻1号・明治44年1月
3永澤嘉巳男氏編『新島八重子回想録』(同志社大学出版部)昭和48年11月〈昭和三年の聞き書き〉
4平石辨蔵氏編「新島八重子刀自の談片」『會津戊辰戦争増補白虎隊娘子軍高齢者之健闘』(丸八商店)昭和3年12月〈第四版〉
それにしても分量的には薄っぺらなものばかりなので、八重の人生を知ることは不可能に近いものであった。そんな時、偶然買い求めていた八重の懐古談があったことを思い出した。それが、
5「新島八重子刀自懐古談」昭和7年5月
である。これは京都附近配属将校研究会の会員が、八重から聞き取った懐古談を小冊子として残したものである。ガリ版刷りの簡易製本であり、おそらく発行部数も少なかったのであろう。そのため同志社社史資料センターにも所蔵されていない稀書であった。そこで「八重の桜展」には展示してもらった。
この本の価値はそれだけではない。表紙の日付けを信じれば、八重が懐古談を語ったのは昭和7年5月24日だった。八重が亡くなったのは同年6月14日なので、ちょうど亡くなる20日前になる。しかも序に「尚一両回推敲ノ筈ナリシモ、突然逝去セラレ、永久聞クヲ得ザルニ到リシハ、実ニ遺憾トスル所ナリ」とあって、本書が発行された時には既に八重が亡くなっていたこともわかる。そのため表紙には「故新島八重子刀自述」と記されている。ということでこの懐古談は、八重の最晩年の一等資料だったのだ。
あらためてその序を紹介すると、次のように書かれている。
刀自今年八十八歳ノ高齢ナリシモ、元気旺盛壮者ヲ凌ギ、昨年迄ハ下婢ヲ置カズ、カノ廣大ナル邸宅ニ独居シ、朝風呂ヲ好メル刀自ハ毎朝午前四時起床、自ラ浴ヲ立テ拭掃炊爨ハ固ヨリ、身廻一切自ラ辨ゼラレタリト聞ク。
本編ハ我ガ京都附近配属将校研究會ノ資料トシテ、刀自ト相識レル會員某ガ刀自ニ懐古談ヲ乞ヒ、速記シタルモノナリ。尚一両回推敲ノ筈ナリシモ、突然逝去セラレ、永久聞クヲ得ザルニ到リシハ、実ニ遺憾トスル所ナリ。又筆者浅学ノ結果ハ、誤聞遺漏尠カラザルヲ患フ。幸ニ諒セラレンコトヲ。
内容は大きく四章に分かれていて、一章は岩倉具視と覚馬のことから始まっている。時代を行きつ戻りつしながら、最後は勝海舟に襄の墓碑を書いてもらったことで終っている。二章は時代を遡ってお得意の鶴ヶ城籠城の語りである。三章はその縁で白虎隊の話に移っているが、ここは短く閉じている。四章は日新館童子訓の話で、これには暗誦朗読も含まれている。そこから再び籠城に戻って、そこで終っている。
なにしろ亡くなる直前の記憶であるから、どこまで八重が正確に語っているかは保証の限りではない。ただ他の懐古談とは重なっていない話も含まれているので、これは八重の人生を知る上で貴重な資料と思った。これを含めた八重の懐古談が手元にあったお蔭で、私は比較的早く『新島八重愛と闘いの生涯』(角川選書)を書き上げることができたのである。
〔注〕「八重の桜」が終った今も、八重の伝記を増補し続けている。いつか「定本新島八重伝」を出せればと願っている。