🗓 2020年06月27日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

主君松平容保かたもりに従って京都に来ていた覚馬だが、目を悪くしたこともあって、慶応四年に勃発した戊辰戦争に際して、薩摩藩二本松邸(同志社大学敷地)に収監されていた。ただし人物が認められていたのか、さほど不自由な生活ではなかったらしい。身の回りのことは、小田時栄が熱心に世話していた。
 もちろんそれに甘んじるような覚馬ではない。戦争が終結した後の日本の行く末を案じ、新政府への建白書作成に着手していた。たまたま一緒に収監されていた若い野澤雞一に口述筆記させつつ『管見』を書き上げ、早速薩摩藩主へ上奏した。
 それがどのように明治政府の施策に活用されたのかは不明だが、少なくとも覚馬の施策は京都の復興に役立てられることになった。現存している明治5年(壬申)の「官員進退禄」には、

   山本覚馬
当府出仕申付候事
  壬申正月廿八日 京都府
       右同人
 当府出仕中十等官員之取扱申付候事
  但四人口に月給三十円差遣事
      京都府
      河原町三条上ル弐丁目下丸屋町
               年寄
 其町内山本覚馬儀当府え出仕十等官員之取扱申付
候間兼而相達置候戸籍規則之通可取斗候事
   壬申正月廿八日
           京都府

という辞令が残っている。ここには十等官員待遇で月給三十円とあり、当時としてはかなり厚遇されていたことがわかる。一般に覚馬は京都府顧問とされているが、実際の身分は嘱託であった。ただし後に知事となる長州出身の槇村正直が、京都の復興事業を覚馬に委ねたことで、顧問以上の権限を与えられたようである。
 それ以前、少なくとも明治4年には覚馬は京都にしっかり根を下ろしていた。というのも、明治4年に覚馬からの手紙が米沢にいた佐久・八重親子のもとに届けられ、一家で京都に移住しているからである。妹八重が到着してからの覚馬の動きは敏捷だった。明治5年10月に、八重は新設された新英学校及び女紅場の出頭女に任命されている。
 また明治6年に第2回京都博覧会が開催された際は、外国人観光客用に英文の「京都案内記」(銅版画入)が作成されているが、その活字を拾ったのも八重であった。同年、裁判に敗訴して東京で収監されていた長谷・槇村を救出すべく、覚馬と八重は人力車で東京に出向いて活動している。
 八重が襄と出会ったのは明治8年であるが、その前に襄は覚馬を訪ねて英学校設立の助力を頼んでいる。覚馬の協力を得ることができたことで、その年の11月29日には同志社英学校を開設した。「同志社」という名称にしても、覚馬が提案(命名)したものだった。
 最初は何かと襄に協力的だった槇村だが、徐々にキリスト教に対して批判的な態度を取るようになる。明治10年に同志社分校女紅場(後の女学校)が開設すると、その後覚馬は京都府の職を罷免されている。その辞令はいたって簡単なもので、

      山本覚馬
 御用無之当府出仕差免候事
 明治十年十二月廿七日 京都府

というものであった。
 覚馬は同志社開校に肩入れしたことで、槇村から切り捨てられたことになる。もっとも覚馬にとって同志社の開校は、京都の精神的支柱を作るという京都復興計画の一環だったとも考えられる。