🗓 2020年06月13日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

同志社社史資料センターに所蔵されている八重の島本徳三郎宛書簡を紹介したい。これは八重が亡くなる昭和7年の2月29日に書かれたものである。

八重書簡(島本徳三郎宛)
相かわらず寒気に御座/居ますが障りも無御座
珍重に奉存候。扨私事も/本日より六度五分内に相成ました。
此度は大分つかれました。扨此間/女学校より存じよらず御祝ひとして
沢山にいたゞきまして真に難有、/右金子は御存様之通りながなが
伏居、ほねとかわ斗に相成、体/いたみ申候に付、敷ぶとん程々之
物ヲ出来、石頃之料に致度と存/居ます。病気之為にいろいろと費
用多く、とても看護婦之代/金は仕払兼ますから今二ヶ月
斗御助ヲ願度よろしくお願申上/先はお願迄早々 不一
 二月二十九日
         新島八重子
島本様

 三月末迄支給

  • 〔 注 〕
  • (1)「六度五分内」は発熱が収まって平熱に戻ったということか。
  • (2)「御祝ひ」は八重の米寿の祝賀金のこと。
  • (3)「石頃之料」はセントラルヒーテングに用いる燃料(石炭)のことか(未詳)。
  • (4)「三月末迄支給」は別人による朱筆。島本の覚書か。

【解説】
 新出の八重書簡は、昭和7年2月29日に島本(徳三郎)宛に書かれたものである(社史資料センター所蔵)。八重が亡くなるわずか4ヶ月前の書簡であり、それだけでも貴重であろう。
この年の2月11日、栄光館の竣工式終了後、京都ホテルで八重の米寿祝賀会が盛大に開かれる予定であった。しかし八重の体調が思わしくなかったことで会は開けず、祝賀金と紅白の鏡餅が八重に贈呈された。
 これまでそれに関する資料は見当たらなかったのだが、この書簡によって八重の病状の一端が明らかになった。また同志社女学校(同窓会)から沢山の祝い金をもらっていたことも確認することができた。
 この折の八重の病状は思ったよりも重篤だったらしく、長く床に伏していたために、骨と皮ばかりに痩せたと書かれている。もちろん八重のユーモアも含まれよう。また体が痛むので、敷布団を新調したこと、暖房のための薪炭費に充当したことが記されている。
 次に本題に入っている。病気による出費(支払)が嵩み、祝賀金も底をついてしまい、看護婦(訪問看護)への代金(臨時出費)が支払えそうもないので、後2ヶ月ほど援助を続けてほしいと島本に懇願(無心)しているところである。
 手紙の宛先人である島本は、同志社の財務部長・島本徳三郎のことと思われるが、この書簡が出現したことにより、八重が島本(同志社)から金銭的に援助を受けていたことも明らかになった。
 末尾に朱筆で「三月末迄支給」とあるのは、このあと3月末まで金銭的援助を続けたということであろう。いずれにしても晩年の八重の暮らしは案外大変だったようである。
 この後、八重の病状は奇跡的に回復し、4月には大澤徳太郎の邸で米寿を祝う茶会が催されている。5月には、京都附近配属将校研究会の求めに応じて「新島八重子刀自懐古談」を自宅で語っている。亡くなる3日前(6月11日)には、大徳寺で催された眞精院(千猶鹿子)の17回忌茶会にも看護婦付き添いで出席している。
 6月14日、急性胆嚢炎で死去。享年86。八重の葬儀は17日、2月に落成した栄光館ファウラーチャペルで同志社葬として行なわれた。参列者は2千人。遺体は若王子の同志社共同墓地まで運ばれ、襄の墓の横に埋葬された。墓碑銘は蘇峰の筆である。