🗓 2021年03月20日
吉海 直人
令和3年の「春分の日」は3月20日です。会津若松ではその日、彼岸獅子が舞う行事がありますね。全国的には「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日として国民の祝日に制定されています。ただし「春分の日」や「秋分の日」は固定されておらず、毎年微妙に変わっています。といっても「春分の日」は、たいてい20日になるか21日になるかです(来年の春分の日は「21日」です)。ごく稀に19日になることもあります。ではどうやってその日を決めているのでしょうか。
前著『古典歳時記』で「秋分の日」について書いていますが、ここでは「春分の日」を主体に述べてみましょう。繰り返すことになりますが、「春分の日」「秋分の日」の定義は、太陽が真東から昇って真東に沈むため、昼の時間と夜の時間がほぼ同じになることです(昼夜平分時)。どうしてそうなるかというと、太陽の通り道である黄道と地球の赤道の延長線が2点で交わるからです(黄経0度)。
その2点こそは「春分点」と「秋分点」なのです。その「春分点」「秋分点」を含む日が「春分の日」「秋分の日」となります。ただし日の出と日没の定義が、太陽の上端部分が地平線と一致した時になっているので、「春分の日」「秋分の日」でも太陽の直径分だけ昼間が長くなります。時間に換算すると約14分昼が長いそうです。
20日にするか21日にするかは、前年の2月1日に国立天文台が官報に「暦要項」を掲載することで決まるそうです。とはいえ、長期的な計算も精密に行われているので、来年以降の春分の日も既に決まっているそうです。
もともと「春分の日」というのは、1年を24等分した「二十四節気」の1つでした。四季の運行に組み込まれていますから、「春分の日」はそれから「夏至」へと向かいます。だんだん昼が長く夜が短くなっていきます。一方の「秋分の日」は「冬至」に向かいます。だんだん昼が短く夜が長くなります。
別の言い方をすると、太陽の南中高度が最も高いのが夏至で、反対に南中高度が最も低いのが冬至です。「春分の日」→「夏至」→「秋分の日」→「冬至」と進行し、そしてまた「春分の日」と繰り返すことで四季が運行します。というわけでこの四つが一年で大事な日になっているのです。その「春分の日」の前後3日間、合わせて一週間が彼岸となっています。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉には、こういった背景があったのです。
ただし正岡子規は「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という俳句を作っています。これは明治26年の彼岸の日、子規が母に向かって「彼岸というのに寒いね」といったところ、母は「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」と答えたそうです。その返事がそのまま口語体の俳句になったそうです。あまりにもできすぎた話ですね。
最初の日が「彼岸の入り」(彼岸太郎)で最後の日が「彼岸の明け」です。「春分の日」は真ん中なので彼岸の中日といいます。家庭ではご先祖様の供養として、お墓参りや法要を営むことが多いようです。ところで「春分の日」が祝日になったのは、明治維新を経た明治12年のことでした。ただしその名目は「春季皇霊祭」、つまれ天皇家の先祖代々の御霊をお祭りする日でした(「秋分の日」は「秋季皇霊祭」)。それが終戦後の昭和23年に改訂され、国民の祝日となったのです。
この頃はちょうど種まきの時期ですから、五穀豊穣を祈願するなど農業を営む人にとっては大事な時でした。かつては農業主体だったので、多くの年中行事は植物の育成と密接にかかわっているのです。その際、お供えとして作られたのが「ぼた餅」でした。それ以外に赤飯を食べたり、彼岸うどん・彼岸そばを食べる風習もあるそうです。季節の変わり目は胃腸の調子が悪くなるので、消化のいい麺類を食べることで胃腸を整え、元気に乗り切るためでした。
なお春の彼岸に彼岸花は咲きません。あくまで秋の花なので誤解のないようにしてください。反対に俳句の季語として、ただ「彼岸」といえば春になります。秋は「秋彼岸」といわなければなりません。