🗓 2022年09月10日

いつものように寝る前に以前読んだ本を読んだ。昨夜は会津会会報119号を読んだ。その中に「会津藩蘇生白虎隊士の事績と奇跡」があった。飯沼貞吉の孫である飯沼一宇氏が寄稿されたものである。会報150ページに飯沼貞吉が楢崎頼三と遭遇したのは、脱走兵扱いされたの為で1868年10月12日に他藩の脱兵460余人が東京に護送されたときに一緒に同行したと書かれている。会津藩士が護送されたのは翌年なので、楢崎頼三が引き連れたとするには飯沼貞吉を脱走兵扱いにするしか方法がないからである。

白虎隊記念館には護国寺・増上寺に謹慎させられた会津藩士の名簿が遺っている。山田善八が記録を遺しているのだ。「明治2年己(きし)霜月(11月)写之」と山田善八は記録した。その中の護国寺謹慎者名簿にはっきりと父親の飯沼時衛と飯沼貞吉が記載されているのである。

すなわち飯沼貞吉は楢崎頼三と長州などに行ってないのである。東京護国寺に他の会津藩士とともに収容されていたのである。飯沼貞吉を脱走兵扱いにしたのは整合性に多くの疑問が残る。この記録には脱走した藩士の名前の上に{脱」と記入されている。護国寺に飯沼貞吉のダミーがいたとでも言いたいのだろうか?

この山田善八の記録を否定できなければ、飯沼貞吉が長州へ行ったという説は虚偽の作り話ということなのだ。大体口伝だけで証明しようというのは無理がある。言い伝えを真実と錯覚すれば。後世の人々の創作はあることないこといくらでもできる。1

残念ながら長州人が捕縛された会津藩士を救ったという美談は、「歴史の捏造」と言われても仕方がない。

間違った作り話が独り歩きしないことを祈るばかりである。

(文責:岩澤信千代)