🗓 2022年11月05日
吉海 直人
寒い冬になると、一刻も早い春の訪れが待ち遠しいものですね。そういう時につい口をついて出るのが「冬来りなば春遠からじ」という言葉ではないでしょうか。この有名な言葉、一体誰が言ったか御存知ですか。なんとなく昔から言われている「ことわざ」(つらい時期を耐え抜けば必ずいい時期がくる)のようにも思えますね。ひょっとすると中国の漢詩(冬来春不遠)が原典だと思っている人もいるかもしれません。
実はこれはイギリスの詩人シェリーの詩が出典でした。彼の長詩「西風に寄せる歌」の最末尾に、
とあるのがそれです。これを見事な日本語に訳したのが、巷間では上田敏だといわれています。ただし『海潮音』(上田敏の訳詩集)はもちろんのこと、「上田敏全訳詩集」にも見当たりません。あるいは『シェリー詩集』の訳者上田和夫と混同されているのかもしれません。
それとは別に、ハッチンソンの小説『If Winter comes』を木村毅が翻訳した際、本の扉に添えられていたシェリーの詩を「冬来(き)なば、春遠からじ」と訳しています。さらにこの小説が映画化された際、「冬来(きた)りなば」と改訳されています。
さて原詩を見て気になることはありませんか。「Winter」「Spring」の頭が大文字になっているのは、「冬」・「春」を擬人化しているからでしょう。それよりも末尾のクエスチョンマークはいかがでしょうか。これが付いているということは疑問文だということですから、疑問文として訳さなければならないはずです。それにもかわらず、「冬来りなば春遠からじ」は疑問文になっていません。本来なら「春遠からじや?」と訳すべきでしょうか。
ここで私の恥ずかしい体験を紹介しておきましょう。それは小学生の頃のことでした。多少ませていた私は、『海潮音』に載っている「山のあなたの空遠く」(カアル・ブッセ)や「秋の日のヸオロンのためいきの」(ヴェルレエヌ)などの詩を好んで暗誦していました。そして調子に乗って「冬来りなば」を、両親の前で「冬こりなば」と読み上げてしまったのです。即座に父親から「それは「きたりなば」と読むんだ」と駄目出しされてしまいました。
国語(文学)には多少自信があったのですが、小学生の私は「来る」を「きたる」とは読めなかったのです。顔が真っ赤になるほど恥ずかしかった記憶が、今でもありありと蘇ってきます。それ以来、「来る」には特別に注意を払うようになりました。さて話を戻して、木村毅の「きなば」という訳と、改訳された「きたりなば」はどう違うのでしょうか。
「きなば」は「来るなら」で、「きたりなば」は「来たなら」という答えが多いかと思います。ここに動詞「来」(カ変)のやっかいさがあります。おそらく「きたる」を完了として訳すのは、「たる」が完了の助動詞だと認識しているからでしょう(「来」+「たり」)。ところが「きたる」は、それ自体で一語の動詞なのです(「来」+「至る」の複合動詞)。ですからこれを「た」と完了に訳すことはできそうもありません。
では「く」と「きたる」の違いはどこにあるのでしょうか。それはどうやら意味上の違いではなく、使用上の違いということになりそうです。要するに和文脈では「く」を用い、漢文脈(訓読体)では「きたる」を用いるわけです。当時は漢文調の「冬来りなば」という翻訳の方が受けが良かったようです。
もう一つ「なば」の解釈が残っています。これは完了の「ぬ」と接続助詞の「ば」ですから、これによって完了に訳さなければならなかったのです。それを踏まえた上で、さらに疑問文に訳すと、「冬が来たのであれば、春が遠いことがあろうか?」となります。これを反語的に訳すと、「春遠からじ」(春は遠くないぞ・春は近いぞ)となります。順序として春の前に冬があるのですから、冬は春の前触れだったのです。合点していただけたでしょうか。