🗓 2025年12月29日

「私の先祖は武田信玄24将の馬場信春だ。土着して会津に住んでいる。親父の代までは馬場一族の懇親会に毎年出ている。」10年ほど前の話である。「へえー」という感じで聞いていたが、今日郷土史に詳しい家でその話をしたら、「その家にある地域について書かれている本があるよ。」といわれて借りてきてきてすぐに読んだ。本家筋の家系図も載っているし、新潟県にも一族の子孫がいることも分かった。
私の知る人は会津の総本家である。以前そこの村出身の農協の職員が来て聞いたら、実家がすぐ近くで良く知っている。〇〇の家と呼ばれているうちですよ。〇〇は総本家を示すものだが忘れてしまった。
その本で驚いたのが会津では地方文書(じかたもんじょ:空襲がなかったので結構遺っている)と呼ばれる古文書の中身である。役所に提出したものでイノシシが出没して被害が大きいので年貢率を下げてくれという請願書である。何と年代は明和である。江戸時代中期徳川家治将軍の治世である。
私は昨年地元の猟友会会長に話を聞いたことがある。「今では温暖化で磐城の方にもキョンが現れている。昔、会津にイノシシはいなかった。足の短いイノシシは雪山を越えて会津に入ってこれなかったからだ。」猟友会の会長が言うのだから間違いないと思っていた。ところが明和は西暦1770年代である。江戸時代からイノシシは会津で田畑を荒らし農民を苦しめていたのだ。
会津藩の「義」などと称賛しているが、会津藩の年貢の誅求は厳しかった。三浦半島防衛・樺太防衛・京都守護職と幕府の走狗となり藩財政はひっ迫していた。司馬遼太郎は「封建制の最高傑作」と会津藩を讃えたが、実情は武士が百姓から搾取する典型的な存在だった。洪水で不作だから年貢を下げてくれという古文書も見た。何と税率が75%だった。25%で種もみを残し、一家の食料も確保しなければならない。悲しいのは75%を65%にしてくれという請願書の内容だ。全国的には5公5民で50%が平均だ。戦争もなく働く必要もないのが武士の身分であり封建制なのだ。「武士の家計簿」にある通り武士階級の下層は手拭いで顔を隠して徳利を抱えて酒屋に酒を買いに行った。会津で足軽のことを弥太の進というが彼らの楽しみは彼岸獅子だった。女房とどこの獅子舞(天寧獅子とか赤井獅子とか地域により結構あった)とかを応援するか意見が食い違い女房を離縁するとか物騒な川柳も記録されている。
天皇家の跡取りだが、男系皇族を養子に迎える案が有力視され自民党内で議論され始めた・来年活発に議論されることになりそうだ。高市内閣は石破内閣と違い結論を出す内閣だ。私など愛子天皇でいいと思うのだが、何百年続いた男子一系の考えを覆すのは大変だ。皇籍離脱してから数十年経った旧皇族の男子と愛子女王が結婚すればその子は天皇になれるのかな。悠仁親王に男子がいなかったらどうする?第一、悠仁親王が天皇にふさわしいのかい?
(文責:岩澤信千代)