🗓 2023年02月27日
新島八重のことを調べていたら、会津会会報で古川春英に巡り合った。40歳くらいで早世したので知名度は会津でも低い。会津会会報によると新島八重の初めの夫川崎尚之助と日新館に勤務し同僚であった。古川春英が蝦夷に行くときに川崎尚之助に佩刀を与えたと書いてある。拙書「不一・・・新島八重の遺したもの」を執筆する時に見つけたのだが頭の片隅に残った。
その後、調べてみると古川春英といろいろな人間関係が浮かんできた。
古川春英は農民の末子に生まれたのだがどういうわけか医学を志し良師を求め米沢挙句は長崎まで行って医学の修行に励んだ。大阪で緒方洪庵の塾でも学んだ。緒方洪庵の塾(今の大阪大学医学部の前身)では福沢諭吉も学んだし漫画家手塚治の祖父手塚良仙も学んだ。
戊辰戦争の時に鶴ヶ城に応援に来ていた松本良順(幕医・初代陸軍軍医総監・順天堂大学創立者佐藤泰然の実子)をして「会津藩には古川春英がいるではないか。早く呼びなさい。」と言わしめ、藩首脳が慌てて春英を探し出し治療にあたらせた。当時の漢方医にとって鉄砲の弾傷には無力であった。鉄砲の玉を取り出す外科手術などできなかったからである。
春英は会津若松の藩医山内春瓏(しゅんろう)の元で学んだ。物足りなくてその後米沢の外科医高橋玄勝の元で学んだ。
その山内春瓏の孫が山内ヨネなのである。昨年ある講演でこの名前を出したら知っている人がいた。そうなのである。野口英世の伝記を読んだ人はこの名前を聞いたことがあるはずだ。まさに野口英世の初恋の人なのである。彼女は勉強して女医になり医院を開いた。
その後ある本を読んでいたらまさに「日本のナイチンゲール」といえる瓜生岩子の伯父さんが山内春瓏なのである。岩子の母の妹が嫁いだのが山内春瓏なのだ。愛する人に先立たれた岩子は叔父を頼り、そこで看護などを学んだ。だから戊辰戦争の時に敵味方の区別なく介護できたのである。春瓏は当時赤ひげ先生のごとく貧しい人からお金を取らなかった。また貧困の為堕胎する母親が多かったのだが、それを思いとどまらせた。
八重は広島・大阪で看護師の監督をしたが戦場には行っていない。であるから八重を「ナイチンゲール」と呼ぶ人がいるが、本当のナイチンゲールは喜多方市出身の瓜生岩子なのである。
幕末・明治の時代は今から考えると携帯もない不便な時代であったが、歴史を学んでいると今より、連帯感・絆が強かったと感嘆する。
山内春瓏から野口英世・山内ヨネ・古川春英と幕末・明治の会津人脈のつながりが見えてくる。春英がいたからこそ野口英世も医聖と呼ばれるようになったのではないかと思われてくる。春英は英世の先達者とも言える。
最後に述べておかねばならない。瓜生岩子は猪苗代で看護の講演をした。その聴衆の中に野口英世の母シカさんがいた。岩子の話を聞いてシカさんは一念奮起し産婆さんの資格を取ったという。
(文責:岩澤信千代)