🗓 2023年05月06日
吉海 直人
東京の研究仲間から、「かりんとう」の詰め合わせが送られてきました。これまで私の頭では、「かりんとう」は駄菓子屋のはかり売りの範疇に入っていましたが、届いたものを見て認識を改めさせられました。メーカーは「麻布かりんと」という超人気店で、そこが東京国立博物館と提携して、尾形光琳の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」を模したアルミ缶に入っていました。これはもうどこから見ても高級菓子です(味も申し分ありませんでした)。
ちょうどいい機会なので、「かりんとう」の由来について調べてみました。その歴史は古く、1200年前の奈良時代にまで遡ると説明されていました。油で揚げた菓子は、ほぼ奈良時代の唐菓子(ぶと饅頭)に由緒が求められるようです。ただし私が求めているのは、「かりんとう」という言葉の初出です。さていつからそう呼ばれるようになったのでしょうか。残念ながら、古い文献に「かりんとう」は出てきませんでした。京都でも古くから作られていたでしょうが、いかんせん記録が見当たりません。ようやく資料に登場するのは、江戸時代後期になってからです。「日本国語大辞典」には、『雑俳名付親』(文化十一年)に「ちいそなり、銭とくらべる花輪糖」という句が揚げられていました。
そのためか中国伝来説とは別に、金平糖などと同様、南蛮からもたらされたとする説もありました。兵庫県姫路市の「播州かりんとう」は、姫路藩の経済振興策として長崎に菓子職人を派遣し、西欧の製菓技術を学ばせたて製造したとされています。スペインのペスティーニョという菓子は、「かりんとう」そっくりだそうです。ということで「かりんとう」の由来は、中国なのかオランダなのか不明といわざるをえません。
唯一、『魂胆夢輔譚』(弘化頃)という滑稽本に、「成らんだのかりん糖」ということわざめいたものが出ており、これが「オランダのかりんとう」をもじっているとすれば、「かりんとう」がオランダからもたらされたと考えられていたことがわかります。その名残か、九州では「かりんとう」のことを「オランダ」と称していることもあげられます。
確かなことは、天保年間に江戸深川六間堀の山口屋吉兵衛が、初めて「かりんたう」という名称で売り出し、それが広まったことで江戸の名物になったということです。その販売方法は、単に店で売るだけでなく、売り子を使った行商でした。売り子は下り藤の紋に「深川名物可里んたふ」と書かれた大提灯を目印にしていたそうです。それを「かりんとう売り」と称していました。
明治8年に浅草仲見世の飯田屋が、砂糖より安価な黒糖をまぶして販売した棒状の「かりんとう」こそは、現在の「かりんとう」のルーツとされています。これ以降、庶民の代表的な駄菓子として、全国各地で独自の発展を遂げていきました。東京三大かりんとうといえば、小桜かりんとう・湯島花月・銀座たちばなですが、地方にも名店はたくさんあります。北海道小樽の黒太鼓・秋田あつみのかりん糖・群馬金加屋のかりんと饅頭・栃木金枡屋のかりんとう・愛知花桔梗のかりんとう・岐阜大地のかりんとう・三重の花咲かりん・京都のあめんぼ堂・大阪岡部のかりんとうなどなど、いくらでもあげられます。
なお行商としての「かりんとう売り」は、明治以降の文献にも登場しています。たとえば森鷗外の『独身』(明治43年)という短編には、
と詳しく描写されています。また岸田劉生の『新古細句銀座通り』(昭和2年)にも、
と記されていました。
この「かりんとう売り」について「日本国語大辞典」を見ると、『東京風俗志』上「売声と行商」(明治35年)に、
とあることが紹介されていました。「かうばしや」というはやし言葉は、前の岸田劉生と一致していますね。辻占に百人一首の「淡路島」歌が用いられていること、また辻占の菓子に「かりんとう」が使われていることは大変参考になりました。
最後に「かりんとう」という名称の由来ですが、これもはっきりとしたことはわかっていません。有力な説としては、見た目が「花梨」(果樹)の幹の色に似ていることから命名されたとするものです。もう一つは擬態語というか、食べた時に「カリン」という音がすることから命名されたとされています。
こうしてみると、「かりんとう」は天保年間に江戸で名称が誕生し、さらに明治8年に一般庶民用として確立したことになります。私が駄菓子と思っていたことも、あながち間違ってはいなかったようです。