🗓 2023年10月12日

「会津武士」歴史春秋

北海道せたな村を開拓したのは丹羽五郎である。丹羽五郎は有名な家老丹羽能教(よしのり)の分家筋に生まれたのだが宗家(起四郎)の男子が相次いで亡くなり娘の豊子の婿養子になり宗家1000石を継いだ。

実父は戊辰戦争の時にわずか100石どりの野尻代官(今の昭和村)長岡城が落城し、長岡藩士やその家族・会津藩士約1600名が引き揚げてきた。野尻は通り道で族は、食料の調達に奔走した。ところが村々においても自然災害などの影響で貯えが十分でなく、代官の申し出に応ずることがなかった。その責任を取り、何気なく部下と酒宴を共にした後、深夜割腹自殺を遂げた。それを伝え聞いた村人は食料を供出し引揚者を飢え死にしなくてすんだという。

いくら分家とはいえ跡取りである五郎が1000石の惣領になるということは、丹羽族家にとっては跡取りがいなくなるわけだから、非常に悲しんだ。

丹羽五郎は西南の役にも警視庁邏卒として参戦し、田原坂の戦いにも登場したが、奇跡的にも生還した。「我が実家の父上、養父の曽祖父及び父上とも皆農を好めり」と言って東京府内の警察署長を退職し、北海道開拓に邁進した。猪苗代の土田(はにた)村などから人員を引き連れ北海道に移住した。5町歩の内4町歩を農民に与え、一町歩を村の基本財産とした。開墾したら自分のものになるのであるからインセンティブとしては申し分ない。

過酷な北海道の開拓で挫折した開墾計画が多かったが、丹羽村は数少ない成功例の一つとなった。

実父丹羽族(やから)夫婦の墓は新島八重の実家である山本家の墓の近くにある。惜しむかな!無縁仏の集団の中にある。

話は変わり、女医第一号荻野吟子に戻るが吟子は戸籍上は荻野ぎんである。当時男の名は漢字であったが、女性の名前のほとんどが平仮名である。吟子の兄弟で男子は漢字、母親は「かよ」姉の3人が「その」「きく」「まさ」、すぐ上の姉だけが「友子」。そこでぎんは「吟子」と漢字をつけるようになった。新島八重もしかりである。彼女の遺墨や手紙は「八重子」となっている。

(文責:岩澤信千代)