🗓 2024年05月02日
同人誌とはもとよりアンニュイなものだ。自分よがりの文章・研究に固執したもので万人を楽しませてくれる代物ではない。そのような歴史愛好家が集まる会に所属しているので年に一回の発行誌が配られたので、読んだ。いつものより分厚いという印象だ。ほとんどの投稿文は読んでも面白くないから、ページだけ見て読み流した。
その中に興味がある文章があった。会津の馬肉文化についての考察である。それを読むと昭和30年に坂下町に力道山が来て馬肉を刺身で食ったそうだ。それが会津に定着したらしい。力道山は調味料を自分で持ってきて刺身で食べたらしい。
1か月ほど前会社勤めの時の1年先輩が夫婦で会津に桜を見に来た。金に糸目をつけないから郷土料理が食べられる料亭に行こうという。どこの料亭でもたかが知れているので5000円飲み放題の店に連れて行った。そこはコース料理で日本酒が飲み放題だ。その先輩は熊本支店にもいたので馬刺しは好きだという。奥さんもそうで3人前の馬刺しを二人で食べた。実は私は馬刺しが好きではないので一切れも食わなかった。。
子供の頃、馬小屋があって、おふくろの実家もそうだが馬がいた。トラクターや耕運機のない時代、農耕馬として同じ屋根の下で飼っていたのだ。その姿が記憶にあるのでとても食べる気にならないのである。
事情があって東京神谷町の『空」という馬刺し専門店に週2.3回ずつ半年間通ったことがある。そこの店は毎朝熊本から空輸された馬刺しが出る。霜降りのとろけるような馬刺しである。これは会津の赤肉と違いかなりおいしい。それで通い始めた時は喜んで通ったのだが、いかんせんどんなにうまいものでも頻繁に食えば飽きる。でも事情があり半年間は通った。もちろん会社の経費である。とても自前ではいけない値段だった。
その先輩夫婦は、馬刺しにつける辛子味噌がおいしいと言って、味噌を店主に分けてもらい持ち帰った。
前に戻るがもう一つ投稿文に目がいった理由がある。力道山が会津坂下町に来たのは昭和30年7月だという。私は昭和30年1月生まれである。
へえー、俺が生まれた年に力道山が坂下に来ていたのか。テレビが普及し始めた時に力道山の試合を見て育った。力道山は刺殺され忽然とこの世を去ったが、大鵬・柏戸も活躍していた時代に育った。「まぼろし探偵」「月光仮面」「鉄人28号」なんかもあった。
この投稿文で一気に昭和に引き戻された。年齢は70歳手前。6.7年前に戊辰150年の式典があった。150年-70年=80年 80年は知らないが自分の人生のかなりの部分が戊辰150年に重複している。明治維新から太平洋戦争があり日本の不幸な時代がある。私の祖父は硫黄島で戦死した。祖父の遺した親父兄妹7名には生まれてからこの方大変お世話になった。はからずも戊辰150年の私は幸せな時代に育った。
年の取るのは早い。少年の時、1年間が長く感じられたが今はアッというまだ。確実に墓場に近づいている。離れて暮らしている息子たちに日記の形で残そうと正月に思ったのだが、書いたのは2日間だけで足しても10行止まりだ。情けなや。集中力も落ちてきた。「棺を蓋いて毀誉定まる」というが、誉ある人生を送ってきたのであろうか。
山本様、恐山の開山おめでとうございます。来年はウソリ湖を見に行きます。12.3日と群馬県安中市に行きますが、会津から来るというので安中市役所はじめフイーバー状態です。こちらは20名、あちらのお迎えが18名ですって。「八重の桜」の時会津若松にお世話になったからとの理由です。念のため何のお世話をしたか会津若松市役所に問い合わせ中です。(笑い)会津・八重の威力はすさまじいもので安中市役所の職員から私宛電話がありました。あちらのお出迎えの内10名は近いうちに八重顕彰祭に参加するようなので賑やかになります。
参考:目黒公司「会津の馬肉食及び力道山と馬刺しについて」より引用
会津若松での試合が行われた際、力道山は七日町駅近くにある精肉店「肉の庄治郎」に来店し、店にあった生の馬肉を持参した辛味噌で食べた。それがきっかけとなり馬刺しを辛味噌で食べる習慣が会津で広まったといわれる。
(文責:岩澤信千代)