🗓 2024年07月06日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

元禄二年(1689年)三月二十七日、門人の曽良を伴って江戸を出立した芭蕉は、順調に東北方面への旅を続け、七月七日には直江津(新潟県)に到着しています。その日の夜、佐藤元仙宅で催された句会で、芭蕉は発句として「荒海や」の句を詠みあげました。これはスケールの大きな句で、『奥の細道』を代表する名句の一つともいわれています。ただしこの句の鑑賞は非常にやっかいです。というのもこの句に関しては、昔からいくつもの疑問が投じられているからである。
 まずはその日の天候についてです。七日の夜の直江津は、朝から雨が降り続いており、夜になっても止みませんでした。だからその夜は、天の川を見ることなどできなかったはずです。とするとこの句は想像で詠んだのか、それともその日以前に「天の川」を見て作ったものを、七日の夜に披露したことになりそうです。
 試みにこの日以前の旅程を調べてみると、酒田(山形県)を発った六月二十五日以降、ほぼ一貫して日本海沿いの道を旅していました。出雲崎(新潟県)に至る十日間ならば、そのどこかで海を隔てた佐渡島を眺めることができたでしょうし、夜に天の川を見ることもできたに違いありません。
 特に出雲崎に到着した七月四日の夜、少しだけ晴れ間があったようで、この日に詠まれたとされています。もっとも曽良の日記によれば、夜中に激しい雨が降っており、果たして「天の川」がきれいに見えたかどうかは疑わしいようです。それについて芭蕉は、「銀河の序」で出雲崎のことを、

日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、

と書き残していました。これによれば、四日の夜に「天の川」が見えていたことがわかります。もっとも、この文章にしても文学的虚構が含まれているかもしれません。これを信じれば、芭蕉は出雲崎で天の川を見ていたことになります。ただし夜に佐渡島の島影は見えないという地元の声もあります。前述の「銀河の序」を見ると、いくつかの諸本の中には「山のかたち雲透にみへて」とあって、佐渡の島影が見えていたとしているものもあるのですが。

この句をめぐっては、他にも大きな問題が存します。この句の解説文を見ると、秋の季語である「天の川」(旧暦七月は夏ではなく秋)を用いており、夜の荒波寄せる日本海に浮かぶ佐渡島と、その上空に広がる天の川の情景を詠んだものとして書かれています。この句からは、近景である日本海の「荒海」(荒波)が動的に迫ってきます。動(荒海)と静(天の川)が見事に組み合わされているのです。わずが十七音で、広大な宇宙と日本海の荒波とを上下に組み合わせた壮大なイメージは、高く評価されています。
 ただしそれを鵜吞みにすることはできません。その光景は必ずしも実景ではなかった可能性が高いからです。というのも「銀河の序」には、「波の音さすがにたかからず」と書かれており、芭蕉の見た日本海は決して「荒波」ではありませんでした。しかし句作する芭蕉にとって、佐渡に至る日本海は穏やかではなく荒れていなければならなかったのでしょう。そうなると「荒海」は、この句を名句にするために必要な演出(虚構)ということになる。
 それだけではありません。地元の人にいわせると、夏の日本海は波が穏やかで、「荒海」という形容はあてはまらないとされているからです。また「天の川」にしても、対岸から佐渡島を見た場合、方角的には決して「横」たわっておらず、むしろ「縦」方向に見えるとのことです。いずれにしても「横たふ」と表現したこと自体、実景とはかけ離れた創作になります。さらに地元の声として、この季節に「天の川」が最も輝くのは、南の空から天頂にかけてであり、それは佐渡島とは反対の方角だという意見もあります。
 ここで考えるべきは、芭蕉は佐渡島を単なる島とは見ていないということです。佐渡は金山として有名ですし、歴史的には流刑の地として知られていました。順徳院(1221年)をはじめとして日蓮(1271年)、日野資朝(1325年)、世阿弥(1434年)などが流されており、そのことが芭蕉の念頭にあったに違いありません。だからこそ穏やかな波より、悲哀や怒りの籠った「荒海」の方がふさわしかったのでしょう。その佐渡島に、もう一つ七夕伝説も重ね合わせられています。
 あらためてこの句を見ると、「天の川」と「佐渡」はどちらが重要なのでしょうか。占める面積や下七に置かれていることからすると、「天の川」の美しさこそが強調されているように見えます。あるいは天空の星には「佐渡」で掘られている金が投影されているのかもしれません。そもそも「荒海」(日本海)と「天の川」(銀河)とは鏡像関係ではないでしょうか。
 以上のように、この句の鑑賞はけっして単純ではないこと、おわかりいただけましたか。そういった虚構や過去の悲劇を内包していることこそが、この句を名句たらしめているのです。