🗓 2024年07月11日
吉海 直人
岩澤信千代氏から、思いがけずテレビ番組の録画のデータが送られてきました。それはテレビュー福島が制作した『会津の女性 内藤ユキの生涯(戊辰涛波 会津女性の明治維新)』(平成三年九月一日放送、四十五分)です。まさか内藤ユキのことがテレビで取り上げられていたとは夢にも思いませんでした。早速ビデオを見てさらに驚いたのは、ユキの足跡をたどっているのが生前の内藤晋さんだったことです。当然奥様・光枝さんも出演されていました。平成三年といえば、晋さんが六十九歳の時です。
御承知のように内藤晋さん(1922年~2007年、1951年の世界選手権五〇〇メートル優勝者)は、スピードスケートの選手として有名ですが、なんと内藤兼備とユキ夫婦の孫(芳雄の息子)だったのです。しかもビデオには、洋と晋兄弟が出征した昭和十八年十一月二十八日に詠まれたユキの、
御いくさのかどでをおくる老の身もほまれをあげて帰る日ぞまつ
という和歌まで紹介されていました。敗戦後、晋さんは無事帰ってきましたが、ユキは既に亡くなっていました。
さて、最初に会津若松を訪れた晋さんは、郷土史家の宮崎十三八氏に案内されて、日向家跡地や菩提寺の浄光寺を訪れています。それにつづいて青森・函館・札幌とユキの足跡が辿られており、大変参考になりました。ところでビデオを見ていて驚いたことがあります。これまでユキは旧薩摩藩士・内藤兼備と結婚したことで、会津若松を訪れることはなかったと考えられていました。ところがビデオでは、日向家の墓を整備する目的で明治三十三年に会津若松を訪れ、浄光寺に亡き兄の墓を建て、親戚一同が集まって法要している写真が写し出されていました。ユキは故郷に帰っていたのです。
このビデオは非常によくできています。ただ一つだけ残念なことがあります。それは、ユキと八重の交流が一切出てこなかったことです。例えば明治二十年に札幌で二十年ぶりに八重と再会したユキは、記念に写真館で二人の写真を撮影しています。また再会の喜びを、
うれしさによる年波もうちわすれまたのあふせをいのり居るかな
と歌に詠じていました。このことが放送されなかったのはいかにも残念です。
この再会後、二人は二度と会うことはなかったと解説されることが多いのですが、同志社の資料によれば、明治二十四年に京都で再会していることわかります。実は札幌での再会が縁となって、ユキは長男・一雄を同志社に進学させていたのです。その一雄が在学中に重い病にかかり、新島旧邸の二階で八重に看病されていました。いよいよと思った八重は、ユキに一雄危篤の電報を打ちます。それを受け取ったユキは、急いで京都へ向かいました。ユキは長男一雄の看病・葬式を通して、八重と悲しい再会を果たしていたのです。
別の資料も見つかりました。それは野村左兵衛の長男・直が弟の唯三郎に宛てた書簡です。封書の消印に明治二四年六月二一日とあります。その書簡の後半に思いがけず、
云々とあったのです。「藤田時尾」は新選組の斎藤一(藤田五郎)と結婚した高木時尾のことです。藤田夫妻は長く東京に住んでいたので、八重は上京の折に会っていた可能性があります。次に書かれているのが内藤一雄ですが、一雄はそれから一か月後の七月二五日に亡くなっているので、日付も一致しています。しかもこれによって、弟の日向新次郎が付き添っていたことが新たにわかりました。
もう一つ、内藤家には八重の短冊が所蔵されていました。そこには、
いくとせかみねにかゝれる村雲のはれて嬉しき光りをぞ見る 八重子八十七歳
と書かれています。これは昭和三年の松平勢津子姫と秩父宮とのご成婚によって、朝敵という会津藩の汚名が返上されたことを喜んだ歌です。ただし昭和三年に八重は八十四歳ですから、八十七歳というのは昭和昭和六年に書かれたものということになります。それは八重が亡くなる一年前のことです。この短冊の出現によって、昭和六年まで八重とユキの交流が継続していたことがわかりました。
こういった新事実を加えて、もう一度内藤ユキの生涯をテレビで制作・放映してもらえないものでしょうか。