🗓 2024年09月29日

昭和3年松平容保の孫勢津子妃が皇室の秩父宮(昭和天皇の弟)に嫁ぎました。長い間、朝敵の汚名をかぶせられた会津藩士にとって天皇家と姻戚を結ぶことは朝敵の汚名返上にほかならず、八重もその喜びを歌に遺しています。戊辰戦争から丁度60年後のことです。

御慶事をききて

  いくとせか みねにかかれるむらくもの はれて嬉しきひかりそ見る

 松平容保は鶴ヶ城開城後、滝沢の妙国寺に謹慎させられました。

 飯盛山を含む当時の滝沢村肝煎(きもいり)吉田伊惣次が、少年たちを近くの寺に仮埋葬したのだが、それが罪に問われた。あげくには、戦後処理にあたった新政府民生局監察方兼断獄の福井藩士、久保村文四郎は、少年たちの遺体を掘り起こして元の場所に捨てるよう、吉田に命じたのである。(東北夜話)

 吉田伊惣次が仮埋葬したのが妙国寺なのです。たまたま会員である住職の母上が「私が嫁に来た頃は秩父宮妃殿下の御手植えの松と言う札が松の木にかかっていた。」とつぶやきました。新島八重が全身で喜んだ秩父宮妃殿下の御手植えの松の札を寄贈することは八重の気持ちの代弁でもあると思い、「白虎隊仮埋葬地」碑前に本日掲げてきました。ちなみに会津本郷出身の経済人、柏村毅氏が石碑を建てたものと初めて知りました。柏村毅は東急電鉄専務や関東バス社長を務めた.

会津会会長や田中角栄にも請われ越後交通の社長を勤めた。京都大徳寺にある蒲生氏郷の墓碑にもその名を遺しています。

(文責:岩澤信千代)