🗓 2024年10月12日

 言い伝えが正当化され、何ら物証がないのに史実とされ、多くの人が巻き込まれた。確かに白虎隊の生き残りの少年を故郷に連れ帰り教育を受けさせた。本当に心温まる美談と言えよう。

 だが、貞吉が長州に連れていかれたと言う時期と明治2年11月まで「東京護国寺謹慎者名簿」と考え合わせると長州に行く時間はない。またその頃楢崎頼三は自分が兵学の勉強でフランスに行くために忙しくしていた。護国寺に迎えに来るはずもないし、旅費の面倒を見たとも思えない。当時江戸から萩まで20日間である。頼三は明治3年にパリに旅立っているからとても貞吉の面倒も見ていられないだろうし、貞吉は明治3年には静岡の林三郎の塾(静岡学問所)にいたことも他の記録からわかる。海軍大将になった出羽重遠もいた。

「恩愛の碑」という既成事実化されたものが美祢市にあるので、地元の人が理解するのが一番なので萩市の歴史研究家に資料を送った。そしたら博物館の学芸員に問い合わせしたら次の事を言われたという。「恩愛の碑が建立する時に寄付の依頼があったが断った。言い伝えのみで事実と判断するのは無理だと当時思っていた。歴史を学ぶ者にとって邪道だった。」おかしいと気が付いた人が当時、長州にいいて今もいらっしゃるのである。根拠が曖昧過ぎる。高見ふさの言い伝えがある。孫の一元さんが断定した。孫が断定したら歴史になるならいくらでも歴史は作れる。「うちのじいちゃんである家康は本当はロシアのエカテリーナ女帝の孫なんだ。」と言ったら歴史になるのかい?

孫の歴史を作る権利など古今東西聞いたことがない。横山大観の鑑定書は親族に権利があるが。相続した印章など物的証拠も見ながら鑑定書を書いている。思い付きで鑑定書など出さない。偽物の鑑定書など出したら、鑑定料など誰も払わなくなる。

(文責:岩澤信千代)