🗓 2019年09月19日

八重さんと早稲田

卒業して数十年経ってから、友人と学園祭の「早稲田祭」を見に行った。学園祭であるから露店がいっぱい出る。竹下登の実家は島根の造り酒屋であるので、銘柄は忘れたが樽が並んでいて無料で竹下元総理の実家の日本酒が飲める。その他OB経営の造り酒屋の酒も沢山出ていて飲み放題である。「米沢のいも煮」を食べていて早稲田出身者ではない友人が言った。「早稲田関係者じゃないと面白くないよね。」と。あえて早稲田のラグビーを書いたのは、この稿の為である。

実は、早稲田大学と新島八重・山本覚馬・同志社とは深く結びついている。日本で初めてできた私立大学は慶応義塾大学であり、その8年後に同志社大学ができた。またその8年後に早稲田大学が出来たのである。

早稲田の草創期には、多くの同志社大学出身者が教鞭をとっていた。安部球場で知られる安部磯雄もそうだし大隈重信の右腕と呼ばれた浮田和民もそうである。有名な坪内逍遥が同志社出身の浮田のことを「早稲田の至宝しほう」と呼んだ。

ここに同志社熊本バンドの横井時雄もいたのである。横井時雄は熊本藩出身の学者横井小楠の長男である。横井時雄は山本覚馬の二女みねと結婚した。戊辰戦争後、覚馬の母佐久・八重と会津・米沢で一緒に過ごしたあのみねである。みねは平馬を生んだ後、産後の肥立ちが悪く早世してしまったが、覚馬の娘であるから八重さんの姪である。横井時雄は同志社の第3代社長(現在の総長)を務めた後、政治家になった。

この横井時雄が早稲田で教鞭をとっていたことがあるのである。
最近、福島県で顕彰活動がさかんになった二本松藩出身の朝河貫一はまさに早稲田大学でこの横井時雄に師事したのである。朝河は早稲田を首席で卒業したが、まさに横井時雄から洗礼を受けたのである。

朝河貫一は、日本人初の米国イエール大学の教授になり、今ではアメリカでも再評価されイエール大学内に「朝河ガーデン」と名がつく庭園が設けられた。1841年、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親書を送るようにアメリカ国内で働きかけを行ったが、実を結ばず日米開戦になってしまった。福島の偉人である朝河貫一博士については、どんどん研究が進められて博士の評価が見直されることを大いに期待したい。
すなわち、福島の偉人朝河貫一博士は、八重さんの姪であるみねの夫であり、覚馬にとっては娘の夫であった横井時雄に早稲田で薫陶を受けたのである。

(文責:岩澤信千代)