🗓 2019年09月24日

「食は、文化なり」
(八重さんのパイナップル事件)

 
白虎記念館の創立者早川喜代次氏は、徳富蘇峰の顧問弁護士をしていた。その関係で昭和43年に「徳富蘇峰」を上梓された。ご存知の通り、徳富蘇峰は同志社在学中、八重のことを「鵺(ぬえ)」(やえとヌエ、これはうまいあだ名である:発音が似ている)と呼びまさに新島八重の天敵であった。八重に向かい「新島襄先生と別れなさい。」とまで言ったと伝えられる。大磯の旅館での襄の臨終後、八重に向かい「あなたを今後は先生の形見かたみと思う」と言い切るまで長い間、八重VS蘇峰は相容れない存在であった。蘇峰は貴族院議員になるのだが、歳費の一部を八重に仕送りし、関西方面に出張する時は、八重に菓子や果物を持参し挨拶を必ずすることを実行した。八重の墓碑は、蘇峰が書いた。

 その「徳富蘇峰」の中に八重の記述がある。
「・・・前略。あくまでも健啖家けんたんかで付近の仕出し屋の「石吉」からよく大きな弁当をとった。果物が大好きで蜜柑みかん・梨・イチゴ等は人の3倍も食べた。氷水も一度に3杯は少ない方であった。友の家でパイナップルを食べすぎ腹をこわして大騒ぎしたこともあった。‥後略。」

 私が子供の頃は、バナナ・パイナップルは高級品だった。周りを見渡せば、我々の食べた果物と言えば、アケビや柿やイチジクなど近くにあるものばかりであり、バナナを食べられるのは病人や年寄りという状況であった。遠足でもおやつにバナナを持ってくる生徒は稀であった。それほど外国から輸入された果物は高価なものであった。当然、外国と交流がない会津藩政時代、八重はバナナやパイナップルを会津の子供時代に食べた可能性は、極めて低い。食べ物を初めて食べるときは、皆それなりに抵抗感があって、拒絶反応を示す。うちの女房も初めて東京で「ウナギ」を食べた時の拒絶反応はすごかったが今は大好物である。八重さんの生きた時代、バナナやパイナップルは高級なものであったろう。「旨いものはうまいと食べる」ことにどん欲な八重さんを彷彿とする。

 そこで、私はひらめいた。「そうだ。HPで食を紹介することで、地域の活性化に貢献できるのではないか。大食い?の八重さんも同感してくれるのでないか。」との思いにいたった。

 第一弾として、同志社大学校友会福島支部山下支部長の奥さんの実家である白河の「林養魚場」のことを短文ながら、「事務局だより」で紹介した。ニジマスの刺身、てんぷら、塩焼きの昼のコースは大変おいしかった。実は私は川魚が大の苦手で会津での法事やその他催事で食べる「鯉のうま煮」は、ある所で料理したもの以外は口にしない。法事の鯉の土産は女房も好きではないので、私の母が一手に引き受ける。

 ところが「林養魚場」のお料理はすべて川魚臭さが全くなく、まさに洗練された料理であった。

葛飾区柴又の川魚料理の老舗しにせ「川甚」などで食べたことがある私がいうのであるから間違いない。と思う。「編集雑記」に「食べる」に関するコーナーを作ります。乞う、ご期待!!

(文責:岩澤信千代)