🗓 2019年11月14日
仲間っこ(会津33観音巡り)
我々会津の村落共同体では前に書いた「伊勢参り仲間」が男のメンバーであるのに対し、女性には「仲間っこ」というのがあり、会津の観音様33か所を回るというのがある。この仲間も一生涯冠婚葬祭を続ける。農繁期と農閑期とはっきりと分かれていた農業中心の生活をしていた農村地帯での会津の風景はどこでも同じような行事があった。
嫁にとってテレビや映画のない時代、姑の目を逃れ、家事からも解放される小旅行は唯一の娯楽でもあり、羽を伸ばせる大チャンスでもあった。私たちは東京に職を求めた為に会津の実家を長いこと留守にしていたのだが、母親はいずれ私たちが実家に帰ることを想定していて、妻のために毎月3000円の旅行代金の積み立てをしていてくれた。妻が実家に戻ってきたときに知り合いがいなければかわいそうだという理由であるが、母親の伊勢参り仲間の嫁たちがそのまま次世代の伊勢参り仲間になった。小旅行でお互いの姑の悪口を言うのも彼女たちの楽しみであったかもしれない。積立金は妻が帰省した時に払っていたらしい。旅行代金がたまった時点で妻は会津で皆と合流し三十三観音を一緒に廻った。旅行代金がたまった時点で秋田の「大曲花火」も見に行ってきた。しかし、とかく女性は3人以上いると群れを作り不仲になるのが常道だ。数年前には解散し、積み立てていた旅行代金も清算したという。長年積み立ててきたので頭数で割ると一人当たりの清算金額もかなりあったという。
仲間っこの話は、亭主にも内緒という掟があるらしい。だから、解散の事由も私にも不明である
解散の話を聞いたときに、私が会社員になった時のことを思い出した。事務的な仕事の内容は事務能力にたけた女性社員に聞くのが当時の勤務した会社の運用であった。私は不明な点があると数才年上のOさんに聞いた。女子社員の中では美人のOさんにばかり聞いていた。ある時、あまり年の差がない千葉県出身の人と尾崎豊のフアンであった人が質問してもほとんど何も教えてくれなくなった。不思議に思い先輩に聞いた。「Oさんと他の二人は仲が悪いのだ。お前はOさんにばかりすり寄っていたからそういう目に合うのだ。」はああ、そういうものか。気が付くのに1年かかり、はや二人との関係修復は不可能で、4年半いた東京下町の支店から群馬県の桐生市に転勤になった。そんなことで仕事を教えてくれない二人の名前は思い出せず、千葉県と尾崎豊でしか連想できない。築地本願寺で行われた尾崎豊の葬式には二人で涙ながらに葬式に参加したという話は聞いたが、完璧に二人の名前は記憶のかなたに去った。
一方、出産で円満退社することになったOさんにはその頃テレビのコマーシャルで知った目の前で焼いてくれるステーキ屋が新宿歌舞伎町にあり、薄給の中大枚をはたいて、仕事を教えてくれた御礼の食事に誘った。当時9万円の初任給であったが食事代は3万円くらい払ったか。
「女性は怖い」と初めて思った新入社員の時の思い出である。
(文責:岩澤信千代)