🗓 2019年11月14日

屋敷神

 
 私たちの村落ではいずれの家でも敷地内に神様を祭っている。祖父の遺した文書には「屋敷神」と記されていた。2年前に長い風雪に耐えた祠が朽ち果てまさに倒壊寸前であった。もう次の冬は越せないだろうとネットサーフィンで祠を検索し購入し、神主を呼んで遷宮して頂いた。
 朽ち果てた祠の中から下記のことが書かれた板が出てきた。

仏壇にある位牌の戒名を追っていくと私は9代目であるが、いつ我が家が創建されたのかは知る由がなかった。祖先(八重と交流があった曾祖父庄伍)の遺した祠にあった板で宝暦7年に傳三郎家から分家したとある。1747年である。祠を新調したのは丁度270年目の年であった。ちなみに本家の位牌を見ると本家は1640年代(1603年関ヶ原の戦い:保科正之会津入部の頃、位牌には死亡年が書かれているので逆算すると)当地に来た。子供の頃から「おまえの先祖は放蕩者だったので、長男だけど分家させられた。」と本家のおじさんに聞かされ、我が家でも「長男だったが分家した。場所は本家の裏の敷地を言われたけど、後ろは嫌だと言って、空き屋敷であったここに移った」と聞かされていた。初代は東山の芸者に熱を上げたらしい。私も飲む・打つ・買う全てを経験したが、どうも初代とはそのスケールが違うようだ。今年その本家の叔父さんが大往生し、本家の現当主の弟が詳細に調べて家系図を作成した。私もそれを見たが分家したはずの傳三郎の位置がその家系図ではよくわからない。何百年も冠婚葬祭をしてきたのだから、血縁はあるだろうし、もう一軒の分家(会計幹事の孝家:分家の時期はうちよりも古いし敷地も本家と地続きである)とも長い間血縁関係で同様に冠婚葬祭を長く執り行ってきた。私の七五三などまた私の子供の七五三などの祝い事を永遠と続けてきたのである。

会津藩政時代の分家は現近代の「家を守る」というので相続放棄による長子相続とは異なる。完全に2等分して田畑を分割した。分家は田畑の生産性を上げる。会津藩政時代の農民に対する苛斂誅求は全国的に見ても厳しく、年貢を払えなくなり「逃散ちょうさん」(いわゆる夜逃げ)が流行した。田畑が荒れ放題になるなど農民の生活は困窮を極めた。湯川村の兼子家では分家を多く出したので会津藩から表彰を受けたと古文書に残る。田畑を開墾し分家ができ百姓が増えれば、当然年貢が増え、藩の財政に貢献するのであるから表彰するという経済合理性が封建時代の大きな特徴であった。

従って、分家を2件出した本家は相当資産家であったのだろう。「酒が大好きで、頼まれると保証人になる先祖がいて持っていた田畑がほとんど亡くなった。
 それで我が家は学問で身を立てることにした。だから勉強しろ。」と子供の頃から言われて育ってきた。文房具・本など勉強にかかわるものは何でも買ってくれた「会津高校に合格したら何でも買ってくれる」と父が言うので合格してからブリジストンの自転車を所望した。10段式ペダルのものであり、当時おそらく会津盆地でそれに乗っていたのは私だけだろう。昭和45年当時のお金で15万以上の値段である。なかなか、手に入らなかったけど父は約束を守ってくれた。昭和53年大卒のわたしの初任給が9万であったから、農業で生計を立てていた父親にとっては15万は相当な負担であったに違いない。今ならこんな無謀なことを父親には言わないだろうが、当時は名門会津高校に合格した私は鼻高々で親の苦労を斟酌しんしゃくするほどの器量を持ち合わせていなかった。父親に貰うだけもらって何の親孝行をしていない自分を恥じるしか今はできない。ちなみに父親に殴られたのは人生でただの一回だけである。お金が入った猫の貯金箱を1年先輩に見せびらかしていた時だった。農作業か帰ってきた父親は有無を言わず私を張り飛ばした。2メートルは飛んだだろうか。そのほほの痛さが懐かしい。父の名は貞夫という。

(文責:岩澤信千代)