🗓 2021年03月31日
高田北城高校の創立120年記念誌が届いた。それを携え30日、市長秘書室と新聞社・中野竹子顕彰会の役員に届けた。中野竹子顕彰会のメンバーでも新潟県高田北城高校のつながりをわかる人は少ない。
会津戊辰戦争で鶴ヶ城開城後、城内で戦ったものは猪苗代へ、城外で戦ったものは塩川へ謹慎させられ農家などに分散して収容されいわば捕虜となった。15歳以下の子供と婦女子は捕虜にならずにお構いなしとなった。
この塩川謹慎組1700名はその後、越後高田藩にいわば島流しとなった。高田藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士についても新政府からの給費がごくわずかであったため、藩庫から多くの金穀を補填し、手厚く待遇した。高田藩は15万石の大藩であるが、飛び地を含めてであり、財政的には豊かとはいえなかった。1700名分の食料調達は大変困難なものであったと想像される。当時のおかずはたくあんと数の子であったと史料に遺る。今では数の子は大変高価なものであるが当時は入手が安くできたのであろう。しかし、肝心の1700人分の米の調達が大変である。高田藩の重臣たちの苦悩のほどが偲ばれる。その後も流刑の土地で命を落とした会津藩士を地元の有志が手厚く弔い、「会津墓地」として今も遺る。戊辰150年の年に会津若松市の室井照平市長もその墓地に弔問した。
戊辰150年の2018年に「戊辰150年記念誌 薫猶を選びて」を刊行した。その中の拙稿「中野竹子と新島八重」を書くにあたって、新島八重の写真は数多く残っているが中野竹子の写真はない。ただ白虎隊記念館に肖像画があるのみである。中野竹子の妹優子は蒲生家に嫁ぎ、晩年の写真はあるのだが眉目秀麗と言われた中野竹子のイメージがわかない。それならば弟の豊記の写真と優子を足して2で割ったらイメージがわくのではないかと、記憶にあった「高田女学校校長」を思い出し、現在の高田北城高校に電話したのである。丁度学校は夏休みで留守番をしておられた先生が対応してくれた。「ありました。校長室にある歴代校長の写真の一番初めにありました。」そこで、中野豊記が高田女学校の初代校長であったことを私は初めて知った。その後当時の池嶋聖也校長から連絡があり、長年取引がある写真屋さんにネガが残っているかもしれないから調べてみるということであった。その後ネガから現像した写真と高田女学校の設立当初の資料を送って頂いた。その写真を記念誌に掲載させていただいた。同封の資料を見ると高田女学校は新潟初の女学校であり、お寺の一室から学校が始まり、お寺にお参りに来る人が興味津々と授業風景をのぞき見していたことなど創立時の様子がわかる資料であった。その中に中野豊記が郡長に提出した文書も載っていたが緻密で理路整然としたものであった。
150年前に会津藩士がお世話になった高田藩とそこの新潟初である女学校の初代校長が中野竹子の弟豊記であったのは浅からぬ縁を感じたのである。
その後池嶋校長より、学校で創立120年記念誌に投稿するので「中野竹子奮戦の景況」の写真を掲載してもよいかというご連絡があった。もちろん断る理由がないので快く承諾した。併せて、会津若松市長の祝辞も載せてはと提案した。室井市長の人柄を知っている私は、断るはずがないと確信していた。高田の会津墓地にも墓参りにも行っているし、会津の先人の苦難を思えば厚遇してくれた旧高田藩の要望に応えないはずがない。ましては、これから日本の将来を背負って立つ若人の励みになる祝辞を送るのは当然である。県や市など行政レベルの縄張りの問題ではない。歴史の連続の問題である。
送られてきた記念誌の室井市長の祝辞は無駄もなく、高田北城高校の生徒たちに熱いエールが込められていた。さすが池嶋前校長の寄稿も高田藩と会津藩の繋がりが時系列でわかり、明解なものであった。
(文責:岩澤信千代)