🗓 2023年02月25日

會津士魂風雲録の表題池田勇人

町野武馬の父町野主水(もんど)は数多くのエピソードを残している。最たるものは弟久吉が北越戦線で討ち死にしたときに失った伝家の槍の話である。長州の大物から町野武馬に久吉が戦場で失った槍を取り返してやろうという話があった。そこで親父に聞いてみると武馬は主水にそのことを話した。その答えは「武士が戦場で失ったものを畳の上で受け取れるか」で明快に断った。時代が変わり聞くところによるとその槍は寄贈され鶴ヶ城にあるらしいが私はまだ見ていない。

町野家は松平時代350石そこそこであるが、中興の祖、町野長門守は蒲生氏郷(92万石)の家老で二本松12万石の大身であった。「槍の町野」といわれ戦場で多くの手柄を立てた。主水は蛤御門の変(禁門の変ともいう)の時に牢屋を抜け出し参戦し二番槍の栄誉を受けた。京都に上る途中桑名藩士を殺害したので拘束されていたのである。変後、戦功を上げたにもかかわらず新潟津川に配流された。戊辰戦争が勃発するや新潟方面の会津藩隊長として奮戦した。

この武馬はその気骨のある主水の子として生まれたのだが勉強嫌いのガキ大将として会津で育った。しかし、一念奮起し山川浩が会津に来た時に東京へ連れて行ってくれと懇請した。山川浩は「父上が良いと言ったら受け入れると答えた。帰ってからその旨を父主水に伝えると「山川に負けた」と言って了解した。山川浩と町野主水は斗南藩に行くか猪苗代に留まるか殺傷沙汰になるくらい激論したくらいで水と油、犬猿の仲である。

武馬は勉強嫌いであったが軍人になるため一念奮起し軍人になり大佐の時に中国の軍閥張作霖の顧問となった。二人は気が合い中国制覇の野望を持ったが張作霖爆死事件で野望もついえた。即刻武馬は帰国して湯河原に住んだ。時の総理近衛文麿なども足繫く武馬の別荘に足を運んだ。それを見て地元の有志が近衛首相の為に武馬の近くに別荘地を進呈したそうだ。訪問客が途切れることがなく、時の総理が武馬の別荘はホテルのようだと言ったそうだ。

武馬は満州事変、日華事変、三国同盟、大東亜戦争のすべてに反対した。連隊長になれなかったので少将、中将などにはなれなかった。軍歴も見劣りすることがあり当時の軍部の独走を阻止できなかったことは日本にとって本当に不幸なことである。武馬の意見を聞いていたら、広島・長崎の原爆、無条件降伏もなかったのだ。

2012年10月18日初刊の「會津士魂風雲録」を読んだのだがあとがきを当時の会津若松市長横山武が書いているがその頃は武馬翁も存命だったようだ。若松に帰郷すると必ず市長表敬に市役所を訪問した。

会津会・町野英明会長は武馬の孫である。

(文責:岩澤信千代)

昭和5年会津会春季懇親会、新島八重子・町野武馬、岩澤巌(筆者の伯父)が出席