🗓 2023年10月19日
会津戊辰戦争と太平洋戦争には類似点がある。大きくは以下の2点である。
①戦域が広かったこと
資源がない日本は南方に石油資源を求めて侵略していった。台湾、フイリピン、インドネシア挙句はビルマ迄。インドのガンジーでさえ日本がヨーロッパの植民地からの独立を助けてくれるものと勘違いするほどだった。日本占領の姿を見ていると日本の同化政策であり、ガンジーの期待は大きくしぼんだ。
会津は山国にあり、領土防衛のため白河口や日光口とか兵力を分散しなければならなかった。お城に残されたのは老若男女のみであった。その上、白河口の総督は血統だけが取り柄の西郷頼母である。「京都守護職受諾は薪を背負うて火に入るが如し」と言って松平容保に諌言したのは良かったが、戦はからきしダメだった。700人の敵兵に仙台藩の援兵などで大幅に上回っていたのだがあっけなく敗れてしまった。これが日光口にいた山川浩が総大将だったら違った結果になっただろう。今市の戦いt日光口にいた山川浩の勇猛果敢さにほれ込んだ敵将土佐の谷干城がのちに山川浩を陸軍(のちに少将)に誘ったのはのちに会津藩にとってはラッキーだったのではあるが。
②物量で負けたこと
太平洋戦争の初期はゼロ戦が優秀で世界にそれ以上の戦闘機はなかった。しかし、一機がアメリカ軍に没収された。それを修理し米国はゼロ戦の弱点を見つけ出した。それからゼロ戦は空中戦で絶対の力はなくなった。
その後のミッドウエー海戦など連合艦隊の敵は空母数や戦闘機の数では圧倒的に劣勢であった。戦艦武蔵などは沖縄戦(天1号作戦)に向かったが帰りの燃料は積んでいなかった。飛行機も船も石油がなければ動かない。すでに資源のない日本は戦わず負けたのである。山本五十六は米国に行ったことがあるので、早くから国力の差がわかっていた。軍学校の仲の良い友人との手紙にそれは遺っていた。
軍の令は絶対である。山本が海軍の最高責任者であれば無謀な戦争にはならなかったであろう。
一方会津では和戦両様の構えで、家老梶原平馬が鉄砲を買い付けていた。しかしそれが新潟港に陸揚げされようとするときには、すでに新潟港は西軍に占拠されていた。要するに武器を会津に運べなかった。鉄砲や弾薬しかなくてどうして戦うのだ。佐賀藩はアームストロング砲を小田山に据えて鶴ヶ城に撃ち込んだ。
多い時には一日に2500発だったという。どうして数がわかったのかというと会津藩士は優秀で一発ごとに米粒を寄せて数えたのだそうだ。危機の中でも任務を全うする意気込みは称賛に値する。
圧倒的に武器の劣勢である会津藩に勝ち目はなかったのである。
ここで落城(会津の人は落城と言わず開城という)したのは籠城して丁度1か月。これは西軍も東軍も「武士の意地」を全うさせたという背景が見える。「会津も敵ながらよく頑張った。」「我々は一か月は持ちこたえた。」双方の落としどころだったのである。広島・長崎の原爆にはこの落としどころがなかった。1億総玉水と騒いでる日本の軍部に通用しないことは米国もわかっていたのである。そこに原爆の悲劇がある。
ウクライナ戦争・パレスチナ戦争にこの落としどころを見つけられるのだろうか。ウクライナの東部の領土をロシアは返還するのか。クリミア半島を返還するのか。ややこしいのはプーチンの頭の中がわからないことだ。また、侵略戦争を始めたロシアが国連でパレスチナ・イスラエル紛争の和平案を出していることだ。自分が侵略戦争をしていて、よその国の紛争をストップできるはずはないだろう。盗人猛々しいとはプーチンの為にある言葉か?
(文責:岩澤信千代)