🗓 2023年11月05日
「わが一族」(苦難を超えて明日へ)は斗南会津会が斗南藩150周年を記念して発行したものである。斗南に移住された旧会津藩士の子孫の方が受け継いでこられた想いが述べられている。その中で目に付いたのが矢村洋子さんと長男英一郎さんのページである。
関東学院大学創立者坂田祐(たすく)が会津の白虎隊記念館に来た時に館内放送で白虎隊士中二番隊隊長日向内記が戦場で部下を置き去りにしたという話を聞いて悲嘆にくれたと著書「恩寵の生涯」に書いた。祐の祖父が日向内記である。現在記念館では館内放送はしていないからごあんs。
私の親戚由美子さんが関東学院大学卒業であり、同窓会の県大会を会津でやるので、講演をしてくれないかの依頼をしてきたので、講演をした。その時に新島八重の話をしたのだが「日向内記は白虎隊を置き去りにしていなかった」、喜多方市の「おもはん社」社長冨田國衛氏が綿密な資料を基に反論されている話もした。強かった関東学院の赤いユニフォームの話と国立競技場で大学ラグビー決勝戦での再会の話もした。関東学院大学はある時期大学ラグビー9連覇していて仁王のように早稲田に立ちはだかった。
このようなことがあり、「我が一族」の文章にくぎ付けになった。「精記(矢村)の長女きんは、白虎隊隊長日向内記の娘ミエの長男秋田県大湯に住む中村進に嫁ぎました。」
まさに坂田祐は中村進の弟なのだ。ミエは日向内記の娘であり、会津藩の窮乏を救うため秋田に留め置かれたという推論が成されていた。日向内記は戊辰戦後喜多方市で雑業(?)を営んでいたが、食糧を娘の嫁いだ中村旅館(米を使う酒造業も営んだ)に運び込んで斗南藩の困窮した武士を応援していたとの話がある。
「明治6年頃、金子を肥桶に隠して会津から運んで旧斗南藩の困窮士族救援に充て、三戸・五戸側の連帯者が精記だったと言い伝えられているそうです」
日向内記は白虎隊を置き去りにするどころか、困窮する会津藩士を救おうと努力していたのが事実だろう。長い間悪者扱いにされていたが真実は違う。飯沼貞吉が長州の楢崎頼三にお世話になったというような作り話が今も横行しているが、歴史の真実に巡り合い、考えを改めることが後世の我々の義務である。
話は変わるが会津藩士子孫会を通じて知り合いになった日向さんがいる。家系調べをしているというのでちょっとお手伝いをした。祖父か曽祖父が白虎隊士中一番隊日向勝美である。諸氏系譜で調べたら日向内記家の4代目くらいが日向さんの本家であった。日向さんには機会があれば冨田さんに会って頂こうと思っている。冨田さんのところへは家老内藤信節の縁戚の方が先祖調べに来たこともある。
坂田祐(関東学院大学創設者)
旧会津藩士の父・中村富造、母ミエ(日向内記の娘)の二男として、秋田県鹿角郡大湯村(現・鹿角し十和田大湯)で生まれる。
中村富蔵は元は西会津村平野氏出身である。日下義雄をはじめ賊軍と呼ばれた会津藩士はその身元を隠すため改姓した人は多い。平野家の先祖は豊臣秀吉の賤ケ岳七本槍の平野権兵衛長康(ながやす)と言われている。
PS.白虎隊士林八十治の子孫の方が書いた文章にも目が留まった。八十治は祖父三浦梧楼の長兄だと書いてある。三浦梧楼と言えば山川健次郎が「京都守護職始末」を出版する時に登場する人物だ。窮乏のどん底にある会津松平家を救おうと交渉した相手だ。松平容保が肌身離さず持っていた孝明天天皇の御宸翰のことである。長州出身の三浦梧楼はこの本を見て御宸翰のことがかかれており、大慌てした。「会津は賊軍でなくなる」からだ。孝明天皇の信任を得ていたことの証左であるからだ。薩長の上司に相談し天皇のお手元金から3万円が会津松平家に下賜された。山川健次郎たちはそれで出版を延期した。北原雅長の「7年史」に御宸翰のことが書かれていたのが出版されたので、頃合いを見て「京都守護職始末」が発刊されたのである。
「我が一族」の三浦梧楼さんは小学校の校長先生など歴任されたと書いてあるので別人です。会津松平家の窮状を助けた人が長州人の同姓同名三浦梧楼という偶然性には驚きました。
(文責:岩澤信千代)