🗓 2024年05月05日

 この両者は戊辰戦争以前から連絡を取り合っていたのではないかといわれている。「資料が語る、保科 近悳(ちかのり)の晩年」(佐瀬渉著)を前に引用したのだが、西郷頼母の遺した手紙に西郷隆盛の書簡があった。隆盛(吉之助)が頼母に20両送ったのである。

 ネットを見ていたら、両西郷は九州の豪族菊池氏につながると出ていた。だんだん広まってきているなあという感じだ。この手紙が隆盛のものか不明である。鹿児島の南洲記念館に鑑定してもらうしかない。実を言うと知人が所有する西郷吉之助の掛け軸を鑑定に出したことがある。偽物と断定された。佐瀬渉さんのコメントにも注目ください。

 西郷頼母が戦争責任をとって切腹もせず、函館に逃れえたのも西郷隆盛が画策したからだとネットでは述べていた。真偽不明なのでこれ以上追及しても始まらないので、佐瀬文書に掲載された手紙を載せます。皆さんが夢を膨らましてください。

 何故、佐瀬家文書として残ったか説明しておきます。ご存じのように西郷一族は敵方が会津に侵入したときに一族21人が自邸で自刃しました。西郷頼母近悳の妹に幾與がいました。この幾與と家老一ノ瀬要人隆智が結婚し多喜衛が生まれ佐瀬家の養女になりました。そこへ佐瀬熊鉄が明治24年に婿入りしして保科近悳(西郷頼母)の遺品を預かりました。幾與の姉八代(やよ)が井深宅右衛門に嫁ぎ井深梶之助(明治学院)を生みました。その妹くにが沼沢七郎に嫁ぎました。それで遺品の一部が沼沢家に残ったのです。近悳は相続人に恵まれずいわば姪に遺品を遺したのです。

(文責:岩澤信千代)