🗓 2024年05月05日

 これは会津松平家 家令樋口光(源助:みつ)が西郷頼母宛に送った電報の文面である。容保は明治26年(1893年)12月5日に逝去されたが12月4日に正3位に昇叙していた。この電報を打った時には12月4日なので正3位になっていたのであろう。つまり、松平容保が危篤だという知らせである。西郷頼母はこの時、霊山神社の宮司であり、宛先は「シノブヤマシタクルマヤ」である。福島市の常宿のクルマヤにいたのであろう。この手紙を受け取った頼母は上京したが、逝去迄おらず葬式には出なかった。当時宮司は県庁の許可なく旅行できなかったのでやむなく帰福したのである。

 この電報は有名なので知っていたが、送信者の樋口光(みつ)がわからなかった。「資料が語る、保科 近悳(ちかのり)の晩年」(佐瀬渉著)を読んで光は樋口源助であることが分かった。樋口源助は戊辰戦記に多く登場する。戦争後明治に入り松平家の家令(執事)になっていたのだ。そして会津会会長の町野英明氏とのやり取りで北越戦争の指揮官だった町野主水の添え役だったことが判明した。添え役とは副官の事である。

 先日会津弔霊義会の春季慰霊祭が4月23日七日町阿弥陀寺で執り行われた。そこで八重顕彰会の副会長である樋口朝亭さんを町野会長に紹介した。物語は続く。町野会長の曽祖父町野主水の弟久吉が新潟の戦場で17歳で18発の銃弾を受け倒れた。町野家伝来の槍一本を掲げて敵陣に突っ込んだのである。その勇敢にしてあまりにも早すぎる死に対して樋口さんの祖父が漢詩を残していた。「町野少年行」という題である。それを樋口さんは私と町野さんに郵送したのである。町野会長から私宛メールが届いた。「その詩は扁額になって阿弥陀寺本堂にある。作者が玉堂光高とあったがまさか岩沢さんの紹介してくれた樋口さんのゆかりの人とは感激した」とあった。
町野会長も作者が気になっていたのである。思わず会津藩士の慰霊祭で判明したのである。

実をいうと樋口副会長は八重顕彰会の設立時からの役員メンバーなのだが、何度言っても会津藩士の慰霊祭には出席しなかった。会津藩士の子孫なのだから出ないとダメだと言って無理やり今年は引っ張り出した。ついでに会津松平家の花祭りにも参加して頂いた。殿様と若殿とのツーショットも撮った。

何を言いたいかというと人の縁は不思議なものだということだ。樋口さんの大叔母が家老内藤介衛門家に嫁いでいるというので樋口さんと内藤家の菩提寺泰雲寺に行った。そしたら墓石に内藤信全(のぶまさ)妻樋口氏とあった。樋口さんは花を用意していてお供えした。戊辰戦争時、敵に囲まれここで内藤一族18人が自刃し寺に火を放った。斗南会津会の前会長は内藤介衛門信節(のぶこと)の曽孫だ。その関係で樋口さんと山本さんは酒席を共にしたこともある。喜多方おもはん社冨田社長も一緒だった。山本会長の祖母(相馬氏)の関係でわざわざ先祖探しに岐阜県からいらっしゃった方がいる。冨田さんはその先祖探しを手伝った。泰雲寺の住職は樋口さんの会津高同級生だという。前述の佐瀬家文書の所有者も樋口さんの同級生だという。

(文責:岩澤信千代)