🗓 2024年05月06日

ゴールデンウイーク女房と山形県に行った。女房は新潟に行きたいと言ったが、共同浴場のある赤湯温泉がひらめいた。女房が右を向けといえば左を向く私の性癖が出た。赤湯に近づいた時はとうに12時を過ぎていた。腹をすかした我々は車を走らせながら、食堂を物色した。途中行列の出来ていたラーメン屋が2件あったが並ぶのが面倒くさいので、空いている店を探した。走っているうちにとある食堂が目についた。女房はてんぷら定食、私はラーメンとチャーハンのセットをオーダーした。ところが祭日はてんぷらはやっていないという。さもありなん、休日に手間のかかるメニューなどやってられない。家族連れで店内は満杯である。地元の人が来る人気の店だからおいしいのではないかと期待も膨らんだ。女房は結局野菜ラーメンを頼んだ。かなり待たされてようやく料理が出てきたが、時間が経つにつれて女房の口数が少なくなった。そう、あまりおいしくなかったのである。スープにコクがなく、何ら褒めるところがなかった。女房は途端に機嫌が悪くなり、共同浴場など行きたくないという。観光案内所で場所を聞いた。親切に教えてくれた。親切だったのでタダでは申し訳ないと思い500円のゴマふりかけを買った。

 それで共同浴場を探し始めた。途中立派な門がある邸宅を通りかかった。市で運営していて入館料が無料ということで、女房に断りもいれず入っていった。正直、結城豊太郎の名前を知っていたが何者かは知らなかった。入ってみて日銀総裁・大蔵大臣を歴任し、日本興業銀行の総裁なども歴任した大物であった。郷里の若者教育を考えていて指針は「南洲翁遺訓」であり、西郷隆盛が好んだ「敬天愛人」が掲げられていた。革命の異分子雲井龍雄や清河八郎の書もあった。

 幕末、会津は京都、庄内藩は江戸の警備を命じられていた。戦争の口実を探していた隆盛は、浪人を使って江戸市中に放火・狼藉の限りを行い犯人は薩摩藩邸に逃げ込んだ。治安の責任を感じて庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちした。この報告を聞いて西郷隆盛はにんまりしたという。江戸城総攻撃の口実が出来たからである。戊辰戦後庄内藩士が西郷隆盛が生前話していたことを遺訓集にまとめた。それもあって、庄内藩は賊軍であったのに、西郷隆盛の擁護のおかげで会津・南部藩などより寛典を受けたと言われる。会津藩が落城後庄内藩主酒田氏が移封される予定であったが藩主は動かなかった。

 そして、ようやく共同浴場にたどり着いたが、車が止まっていない。説明書には14時から営業と書いてあるが、すでに7分すぎている。それで浴場の入口に入ろうとして唖然とした「本日定休日」の札がかかっていた。以前私が来た時は共同浴場が5つあったが今は2つだという。ゴールでウイークは開けるべきだろう。経済合理性がないから浴場が減るはずだと納得して、会津に向かったのである。

(文責:岩澤信千代)