🗓 2024年07月07日

10年ほど前私は「不一・・・新島八重の遺したもの」を執筆中資料調べの中で「万年青」に巡り合った。その中に戊辰戦争中、日向ユキが避難したという栗城伝吉という名があったので、その子孫の方を訪問した。そこで日向ユキの孫の妻である内藤光枝さんの事を聞いた。その他日向のお姫さんが担架代わりに使ったという屏風も見せてもらった。「たまに夫婦で札幌に行き内藤光枝さんと食事をしている。」という。150年も経ったのに今でも子孫と交流があるというので大変驚いた。

栗城さんより内藤さんの連絡先を聞き早速お電話を差し上げて、いろいろとお話を聞いた。その中で新島八重と再会した時に詠んだ和歌があるという。のちに丁寧なお便りと資料を頂いた。

その中に「幼な友達新島八重さまに会えて 

  うれしさによる年波もうち忘れ またのあふせ(逢瀬)をいのり居るかな

があったので不一に掲載させていただいた。

 当然のことながら上梓されてから内藤様にできた本を献呈させていただいた。それから盆暮れに北海道の銘産品が送られてきた。本場のシシャモの味は今でも忘れられない。輸入物のシシャモと全く味が違う。「札幌にいらっしゃい。」と何度も誘われたがかなわなかった。それから数年経ち今年同志社校友会福島県支部総会(北海道副会長が出席)の縁で光枝さんの甥ごさんである同志社校友会札幌支部草野会長とお近づきになれた。内藤夫妻が写っているDVDが有ることを話すとこの放送が見たいとおっしゃられたので、自分のDVDを探したのだが見当たらない。DVDにしたときに栗城さんにお渡ししたのを思い出して探していただき、何枚かコピーすることができた。そして10年ぶりに見たのだが構成がしっかりしていて見ごたえのあるもので5回も見直した。「万年青」を世に出した郷土史家の宮崎十三八さんも写っていた。万年青は拙書「不一」に全文を掲載したのだが、十三八さんはすでに故人となっておられ奥さんに掲載許可を頂いた。

 また斗南藩の歴史に詳しい葛西先生の元気な姿も映像に残っていた。この時点では不明だったのだろうが、ユキの住所を新島八重に教えた雑賀アサは遺愛学園を経て東京の青山女学院の舎監となった。

 幼馴染の日向ユキと八重が札幌で会えた感動的な物語は「不一」のクライマックスの一つでもあった。ユキの長男一雄は同志社大学に進んだが在学中残念ながら病死した。一雄は新島旧邸2階で療養していた。八重とユキは京都で悲しみを共にしたことは間違いない。

新島襄が内藤夫妻に送った「リンゴの礼状」が北海道公文書館に残り、地元の北海道新聞が報道したこともある。

(文責:岩澤信千代)