🗓 2024年07月19日

 今まで新政府軍の江戸城総攻撃が回避されたのは、西郷隆盛と勝海舟の巨魁の人格のおかげだと思っていた。無血開城の元を作ったこの二人の絵画はよく知られている。また、陰に山岡鉄舟の活躍があったとも巷間伝えられている。「金もいらぬ・地位もいらぬ。本当に恐ろしいのは山岡鉄舟だ」と西郷隆盛が語ったという話は巷間伝えられる。

 睡眠薬代わりに書棚から昔読んだ本を引っ張り出して寝床で読んでいる。自然と眠りにつけるからだ。最近蕁麻疹が治らずかゆみを我慢しながら読んでいる。痒いのが我慢できないと風呂場に行き手足に冷水を浴びせ冷やしてから本を読み始める。そしていつの間にか眠り、気が付くと朝になるパターンだ。

 江戸城無血開城は100万人の江戸市民を火災・戦乱から守った美談として長く伝わっている。その本(歴史読本86-6:石井孝)を見て、その内実がわかった。無用の戦乱を回避した裏には、幕府軍・新政府軍の知られざる交渉があったようだ。抜粋すると

新政府側の要求

①慶喜の軍門投降、備前藩(岡山)へのお預け

②江戸城明け渡し、軍艦・武器の接収

の無条件降伏であった。

幕府側の嘆願書

①慶喜は隠居し、水戸で謹慎

②江戸城の自主的明け渡しと田安家の保管

③軍艦・兵器の内相当数を徳川氏保管

③戦争責任者への寛大な処置

勝は名誉ある降伏条件を得るために英国公使パークスを利用したようだ。

3月15日総攻撃と決まっていたが西郷隆盛は中止命令を出し、京都に向かい首脳会議が開かれた。結果江戸城を田安家に管理させるのを、尾張藩に変更するくらいで、ほぼ幕府側の主張を認めた。そして4月11日に平和的明け渡しが行われた。ところが大久保利通が頑強に徳川復権阻止を訴え、徳川家は静岡70万石の一大名としての扱いに変わった。

 この寛大な処置で済めばよかったのであるが幕府側の勢力一掃の標的になったのが会津藩であった。戦争責任者の寛大な処置の中に会津藩松平容保が含まれなかったのは自明だ。新政府が生贄を欲しがったからだ。それに対し「日新館童子訓」の教えを忠実に守り抜いたのが会津の武士たちであった。童子訓の基本は「三大恩」である。すなわち「君主への恩、父母への恩・師への恩」である。そのうちの殿様のために戦ったのだ。父母は殿さまから給料をもらいそのおかげで自分たちは生活ができる。先生のおかげで自分たちは道を間違えずに生きていける。

 会津では「義」の為の戦いというが、この「義」は殿様のためしいては自分の為ということだ。「徳川家への忠誠を第一義とせよ」保科正之が家訓として残したからと一般的に語られることは多いが、会津武士は家庭において「日新館童子訓」を父から、母から聞いて育っているので血肉になっている。女性も日新館童子訓を熟知していたために320人の犠牲者が出たのである。会津藩教育の根本は日新館ではなく家庭にあったのだ。

 ここで忘れてならないのは、自然と歴史に恵まれている為会津には観光客が多数訪れている。会津武士の果敢な血の犠牲がなければ後世に何が残せたか?全国的に見よ。江戸時代300以上の藩があったのだが、このような歴史を遺したのは会津藩だけである。あとは火災に焼けず残った国宝級のお城を持った藩くらいではないか。

(文責:岩澤信千代)