🗓 2024年09月07日

会津人群像2010NO16を見ていたら、唯一の生存者飯沼貞吉(貞雄)の孫である飯沼一元さんが「白虎隊顛末略記」(口述飯沼貞雄、記録原新太郎)を紹介されていた。

そこに自刃を決意した場面が描かれていたので紹介する。

自刃の事

 斯て果つべきにあらざれば,ここに一同足を止めて議す。野村駒四郎、進みて曰く、今や満目の有様斯くの如し、臣士の分君に尽くすはまさにこの秋なり。寧口今行進する滝沢街道の敵軍を衝き、斃れてのちに止んと。井深茂太郎曰く、国に報ずるの今日、敢えて寸時の命を惜しむにあらざ嘗て嘗て父母の物語に聴けり、若松城は古の英雄蒲生氏郷の築ける名城なり、一朝幾多の兵、これを攻めるも容易にとるを得ずと。今や焔は天を焦がし、、砲声山岳を動かすも、決して城落ちたるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るに如かすと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う。篠田儀三郎曰く最早斯なる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀元より不可加というにあらざれどもとても十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に虜にせられ縄目の恥辱を受る如き事あれば、上は君に対して何の面目やある、下は祖先に対し何の申訳やある如かず、潔く茲に自刃し、武士の本分を明らかにするありと、議論ここに始めて定まり、徐に用意をなし、慶応四年戊辰八月二三日巳の刻(午前10時)過ぎなりき。一同列座し西方鶴ヶ城に向え遙拝決別の意を表し、従容として皆自刃したりき。

白虎隊が自刃したことは全国的に知られている話である。でもその決断に至った経過はあまり知らていない。侃々諤々の議論があったことがこの記述でわかる。

(文責:岩澤信千代)