🗓 2024年09月25日

 八重さんに話を戻そう。京都會津会に八重さんは必ず出席していたが、中でも奥田重栄さんとは親しかった。奥田さんは陸軍少将で退役したので将軍と呼ばれた。時が経ちそのお孫さんが会津人の親睦会である会津会(会員800名)の幹事長に今年就任された。24日に会津弔霊義会主催の慰霊祭が飯盛山で挙行された。その式典で初めて奥田幹事長と名刺交換させていただいた。幹事長の父上は八重さんが存命だったので八重さんに大変可愛がられたそうだ。

 昭和3年11月に天皇即位の大礼が京都で行われ会津藩出身者が黒谷会津墓地に集まった。その写真は同志社資料センターや金戒光明寺西雲院にもあり、拙書「不一・・新島八重の遺したもの」にも掲載させていただいた。その写真の縮小版をお持ちでわざわざ頂いた。そして奥田将軍を教えてくれた。その人は写真右の墓石の上に座っていた。私は長い間その人を風貌からして、佐瀬熊鉄だと思っていた。

 祖父の顔を孫が間違えるはずもない。不一の付録にある会津会会報34号で確認した。確かに集合写真に参加した会津藩士の名前63名がすべて出ているが佐瀬熊鉄は参加していなかった。

 いみじくも来年は覚馬・八重が心血を注いだ同志社大学が創立150周年を迎える。これを機会に山本家菩提寺である大龍寺で行われる顕彰祭に来ていただけないかと同志社本部に依頼している。そこに八重と親しくしていた奥田将軍の孫が加われば新しい八重の姿が聞けるかもしれない。顕彰会を設立して5年、櫻井よしこ先生とお会いできたのも八重さんのおかげだ。来年の顕彰祭は苦労が報われる年になりそうです。会津藩という国が滅びた会津藩士の拠り所はやはり会津藩士であり旧藩主でした。京都や東京で会ってお互いに勇気づけ合い絆を深めたのです。函館でも簗瀬三左衛門や梶原平馬なども肩を寄せ合って近所に住み「賊軍」の汚名と戦っていたのです。

 ちなみに奥田幹事長と電話で話したら午年生まれの同級生でした。私はひつじ年の早生まれですが学年は一緒でした。 共通の知人である会津会常任幹事と同級生だと言ったら驚いていました。女性だから年齢を聞けなかったと二人で大笑いしました。その女性Nさん(本会会員)は話をしている過程でわかったことですが、学部は違えども大学の同級生で羊年早生まれだったのです。今年の顕彰祭にも参加して頂き会津若松市の観光大使に就任されました。京都守護職時代新選組を配下に置いた筆頭公用人の子孫です。

(文責:岩澤信千代)