🗓 2024年11月10日
今日は妻の母の一周忌があり日蓮宗妙法寺本堂で法要があった。妙法寺は私が住んでいる近くの涙橋で戦死した中野竹子の父母の墓があるところである。知識としては知っていたが現場を訪れたことがない。早めに行き場所を探してみたがわからない。寺の奥さんに尋ねたところ、親切に現地を案内してくれた。父親は中野平内と言って江戸在勤の武士である。だから容保が江戸から会津に下ったときに家はなく親類の田母神家に中野一家はお世話になった。母は足利藩士の娘であり、これが強者で有名である・孝子(こうこ)という。中野竹子が戦死した後にどうにか鶴ヶ城に入場したのだが、女子の役割は食事を作ったり、負傷者の介護である。孝子は負傷者の膿が付いた包帯を洗ったりしていたのだが、その膿のついた手で握り飯を食べて周りの人を驚かしたという。
その母親の墓が奥さんの説明によると左側の小さな墓だという。戊辰戦争後竹子の父母は愛娘を失った悲しさから弱気になり病弱な人生を送ったと記憶している。強者の墓としては寂しい感じがした。
竹子の弟豊記は新潟師範を出て現在中越市の高田女学校の初代校長になった。中野竹子の顔形は肖像画があるのみでわからない。妹の優子の写真は残っている。弟の写真があれば竹子の顔も想像できるだろうと現在高田北城高校(旧高田女学校)に問い合わせたところ、校長室に初代校長として肖像画があるという。そして学校と長い間付き合いのある写真館にネガがあるという。当時の池嶋校長から現像した写真を送っていただいた。その写真は私が編集した「戊辰150年記念誌」に掲載させていただいた。
丁度北城高校が120周年記念誌を編集中だったので室井会津若松市長に寄稿依頼した。室井市長も戊辰戦争後会津藩士が高田藩に謹慎させられお世話になったのを知っているので快く引き受けていただいた。
(文責:岩澤信千代)