🗓 2025年02月11日

 若松時代、英世は「課外特選生」として会津中学校に通っていたが、一緒に机を並べていた中に、山口鹿三、君島八郎、宇川久衛、松江春次などがいた。山口は慶徳村(現喜多方市慶徳町)出身である。向学の志を持ち、会津中学校が開校されることになると入学したが、最年長で20歳になっていた。語学を得意としていて、英語、フランス語、ドイツ語などに堪能であった。英世にフランス語を教えたことでも知られている。キリスト教の伝道者として生涯をささげ、上智大学の創設にもかかわったという。(小桧山六郎:「医聖を育んだ人々」)

昭和3(1928)年

野口英世夫妻の墓< 死 去 >
5月21日、研究の対象である黄熱病を発症し、死去する。
5月22日、ロックフェラー研究所は、死を悼み、半旗を掲げる。
6月15日、妻の眠る米国/ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。 51歳。 墓碑には、
ロックフェラー研究所/医学正員の英世は、科学への献身を通して、人類のために生き、人類のために死んだ」 「会津への夢街道」
と刻まれていると聞く。

 私は福島県立会津高校を卒業している。在高時は80周年式典があった。その時は湯川秀樹の記念講演を学而講堂で聞いた。まだノーベル受賞者が存命だったのである。内容は湯川先生の著書「旅人 ある物理学者の回想」を読んでいたので二番煎じのような気持ちで聞いていた。でも私のこれまでの人生で至近の距離でノーベル賞受賞者の謦咳にふれたことは貴重な体験である。当時京都大卒の数学の先生がいたが、誰が湯川博士を呼んだのだろうか?数学の佐野先生のコネでなかったかと今でも思っている。京大で接点があったのではと・・・。

山口鹿三日誌
山口鹿三日誌

 2.3年前編集に携わった滝沢洋之先生より恵贈いただいた100年記念誌「第一期生の日誌」を最近読み返した。わが母校は明治23年4月3日に私立会津中学校として開校した。志願者104名の内64名が合格した。当時の旧制中学は5年制であったが成績優秀者あるいは軍人を目指すものは4年修了であった。成績優秀者は旧制一高や二高などのナンバースクールを経て東大など旧帝国大学へ進んだ。

 13歳6名、14歳9名、15歳18名、16歳8名、17歳9名、18歳2名、19歳2名、20歳1名である。28年の卒業式が行われたが卒業生は24名になっていた。家庭の事情や落第したからであった。半分以下である。その中には東京帝国大学を卒業して初の銀行局長や医者あるいは建築家となったものもいる。

 ここで取り上げるのは最年長山口鹿三である。最年長の20歳で入学したのは彼である。彼は野口英世に得意なフランス語を教えた。野口英世の代名詞は「忍耐」であるが、鹿三が教えたフランス語「忍耐は辛苦であるが、その結果は甘美である」からきている。鹿三は決して有名ではないがカトリック教の著書を多く残した。また、日本のキリスト教会がローマ法王に親書を送ったが原案を書いたのは鹿三である。会津中学を卒業し若松で私塾を開いていた時に野口清作(英世)にフランス語を教えた。上智大学の創設にも関係したことなどあまり知られていない。一緒に学んだ松江春次は砂糖王と呼ばれたが、晩年会津に帰り市長となった。

一期生写真
一期生写真
山口鹿三口語
山口鹿三口語

(文責:岩澤信千代)