🗓 2021年02月27日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

菅原道真については、既に『古典歳時記』『暮らしの古典歳時記』で取り上げましたが、肝心の飛梅伝説について言い残していることがあったので、ここであらためて取り上げてみました。それは、

東風こち吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな(拾遺集1006番)

の「東風」が春風かどうかということ、そしてもう1つ飛梅は白梅なのか紅梅なのかということです。

これについて、みなさんは気になりませんか。私は気になって仕方ありません。その前に、「東風吹かば」の第五句にある本文異同についても触れておきましょう。最初の出典である『拾遺集』には「春を忘るな」とありますね。また『大鏡』や『北野天神縁起絵巻』『源平盛衰記』も同様です。それに対して『宝物集』・『十訓抄』『古今著聞集』などの説話集では「春な忘れそ」になっており、これによって2つの本文が対立することになりました。みなさんはどっちで覚えていますか。ややこしいことに『大鏡』流布本は、説話集の影響を受けてか「春な忘れそ」になっています。なお大宰府では「春な忘れそ」の方が採用されているようです。
 さて「東風」ですが、中国の『令記』月令の「孟春」条に「東風凍を解く」とあって、春風のことを述べています。また「東」は「春」の方角ですから、「東風」を「春風」のこととすることもできます。もちろん「北風」は北から吹く冷たい風のことだし、「南風」(「はえ」とも読みます)は南から吹く暖かい風のことですよね。そうなると「こち」も東から吹く風となりそうです。ここでは季節と方角がマッチしていることになります。道真は京都から西の大宰府に左遷されたのですから、ちょうど東風で方角としては正しいことになりそうです。
ただし「東風」は春以外にも吹きました。その根拠として、例えば『蜻蛉日記』天徳元年(957年)7月条で野分が吹きまくった後、道綱母は、

散りきても訪ひぞしてまし言の葉をこちはさばかり吹きしたよりに

という歌を兼家に送っています。おわかりのように、ここでは「東風」に「此方」が掛けられています。これなど「東風」が「春風」の意味であれば、季節はずれの秋の歌に詠み込まれることはないはずです。となると、道綱母は「東風」を「春風」という意識では使っていなかったことになります。

また『名語記みょうごき』という鎌倉時代の辞書にも、「東よりふく風をこちとなづく」とありますから、「こち」は東から吹く風でも良かったのです。それが道真の歌の流行によってか、あるいは用例が春に偏ったためか、はたまた漢詩の影響を受けてか、室町時代以降「春風」の意味が強くなっていったようです。そうしていつしか、「こち」は「春風」の意味に定着していったというわけです。
 もう1つの紅梅か白梅かはどうでしょうか。残念ながら「東風吹かば」の歌では紅梅か白梅かには触れられていません。それどころか『拾遺集』にも『大鏡』にも飛梅の記述はありません。それが『北野天神縁起絵巻』の諸本の1本である承久本において、

さてこの御歌ゆへに、つくしへこの梅はとびてまいりたりとぞ申侍るめり。

という一文が加筆されており、ここが飛梅伝説発祥の起点になっているようです。

ただし、現在の大宰府天満宮にある飛梅は白梅です。しかも千年を越えて継承されているといわれているのですから、白梅か紅梅かという問題が生じる余地はなかったはずです。ところが『北野天神縁起絵巻』では、道真が「東風吹かば」という歌を詠んだのは紅梅殿(現在の北菅大臣神社)と書かれているのです。また『源平盛衰記』でも、紅梅殿の梅の枝が飛んでいったとあるので、いつのまにか飛んでいったのは紅梅ということになったのでしょう(『十訓抄』も同様)。
 そこで困って、もとは紅梅だったものが、大宰府南館の道真邸(現在の榎寺)まで飛んでいく途中で白梅になったというお話まで作られています。あるいは紅梅殿には白梅も植えられていて、その白梅が飛んでいったともいわれています。飛んでいったのが紅梅か白梅かは到底解決できそうもありません。