🗓 2021年02月20日
吉海 直人
桜の木は古くから日本に自生していました(国産)。だから上代においては、必ずしも珍重されるような花ではなかったのです。それに対して梅は、進んだ中国文化と一緒に日本に伝来した外来種でした。そのため都に植えられ、大切に育てられたのです。
平安時代に至っても、梅の尊重は続いています。その象徴として、都が平城京から長岡京を経て平安京に移った際、新造された内裏の紫宸殿には「左近の梅」と「右近の橘」が植えられました。これについては中世の百科事典『拾芥抄』中巻「宮城部第十九」に、
とあって、桜がもとは梅だったと記されています。「南殿」というのは紫宸殿の南側の庭のことです。「承和年中」は仁明天皇の御代で、834年から848年までを指します。多くの解説書が『天暦御記』を根拠としているのは、『拾芥抄』にある逸文(見天暦御記)に依拠しているからなのでしょう。
また大江匡房の『江談抄』(説話集)にも、
と記されています。秦河勝は聖徳太子にかわいがられた渡来人系の人ですから、これは河勝の子孫が所有していた邸宅かと思われます。その敷地が内裏に提供され、さらに河勝の旧邸に植わっていた橘をそのまま「右近の橘」に利用したというのです。この記述によって、秦氏の勢力は嵯峨野一体だけでなく、内裏近辺にまで及んでいたことがわかります。
この話は『古事談』という中世の説話集にも、
(古事談6─1「亭宅諸道」)
と取り入れられていました。『拾芥抄』には書かれていなかった重明親王は、醍醐天皇の皇子です。この説話を読むと、梅から桜に植え替えられたのは、村上天皇の天徳4年(960年)に内裏が全焼した後、と思ってしまいそうです。しかし『拾芥抄』は、承和年間に左近の梅が枯れた時、梅から桜に植え替えられたと読めます。要は「改めて植ゑ」を、同じく梅が植えられたと見るのか、桜に植え替えられたと見るかということです。
幸い『続日本後紀』の承和12年(845年)2月1日条に「天皇御紫宸殿。賜侍臣酒。於是攀殿前之梅花」とあって、この時はまだ梅であったことが確認できます。それが『三代実録』の貞観16年(871年)8月24日条になると、「大風雨。折樹發屋。紫宸殿前桜。東宮紅梅。侍従局大梨等樹木有名皆吹倒」とあり、ここでは桜に変っているので、承和12年以後を「左近の桜」と解釈してよさそうです。
嵯峨天皇の中国好みは有名ですから、梅が尊重されたのも納得できます(嵯峨天皇ゆかりの大覚寺の寝殿は今も「左近の梅」です)。その皇子である仁明天皇の御代になって、国風文化が見直される中、梅が桜に植え変えられたとする方が、村上天皇とするよりずっとふさわしいと思います。それは894年の遣唐使派遣が、菅原道真の進言によって廃止となったこととも共通します。それ以前、最後の遣唐使が派遣されたのが838年(やはり仁明朝)でした。その時、小野篁が乗船を拒否して隠岐に流された話は有名ですね。
こうして梅に替って桜が国風文化隆盛の象徴となりました。『万葉集』では梅に押されていた桜ですが、『古今集』になると梅を圧倒し、花といえば桜のことを意味するまでになっています。これ以降今日まで、「左近の桜」が他の花に替えられることはありませんでした。
一方の「右近の橘」については記述が短く、やや冷淡な書きぶりですね。他の植物に植え替えられなかったからでしょうか。なお3月3日に飾る雛壇にも、「左近の桜」と「右近の橘」がセットで付いています。その飾り方(左右)は、紫宸殿を参考にしてください。現在、御所(里内裏)は、月曜日以外は一般公開されていますから、左近の桜が満開になった頃を見計らって、見学してはいかがでしょうか。