🗓 2021年05月01日
吉海 直人
これも芭蕉の有名な句です。芭蕉自身もこの句がお気に入りだったらしく、何度も懐紙に書き残しています。その詞書によると、唐崎(滋賀県)で舟を浮べて春を惜しむ句を作ったことがわかります。それは元禄3年(1690年)3月下旬のことでした。最初は、
と詠じたようですが、後に切れ字の「や」が強すぎると思ったのか、「を」に推敲しました。
その自信作を門人の尚白が非難したのですから、芭蕉も腹の虫が納まらなかったのでしょう。その経緯が『去来抄』に残っているので、まずそれを紹介します。
尚白が芭蕉の句を非難しました。「近江」は「丹波」にも、「行く春」は「行く歳」にも置き換えられるというのです。これについて芭蕉は、去来にどう思うかと尋ねました。去来は即座に、尚白の非難は当たりません、「近江」だからこそ春を惜しむにふさわしい場所なのです、と答えました。
芭蕉はその通り、とその言葉に満足します。去来はさらに続けて、行く歳を近江で惜しんでも、いく春を丹波で惜しんでも、惜春の情はこの句に及ばないと力説します。尚白は近江在住なので、一番近江に精通しているという自負があったのかもしれません。ですから芭蕉は、この非難を気にしていたのでしょう。去来の言葉に我が意を得たりと悦んだ芭蕉は、去来こそは共に風雅を語るに足る者だと褒めちぎりました。言外に、尚白は共に風雅を語る資格がないことを含んでいます。なんだか去来の自慢話に聞こえますね。
ここで留意すべきことがあります。まずは尚白の批判の中の「ふるべし」という言葉です。この意味わかりますか。「ふる」というのは、句に使われた言葉が、他の言葉に置き換えられるということです。「動く」ともいわれています。尚白は、「行く春」も「近江」も他の言葉に置き換えられると主張したのです。
それに対して去来は、「今日の上にはべる」と擁護しています。これもわかりにくい表現ですね。これは、実際に芭蕉が近江の景色を実感して詠んだ句ということです。去来にとっては実景が大事で、だからこそ眼前にない「丹波」や、季節に合わない「行く歳」(冬)ではだめなのです。
芭蕉も、「古人もこの国に春を愛すること」云々と言葉を畳み掛けています。実感だけでなく、先人もこの近江の春を惜しんで歌を詠んできたと、伝統の上に立脚した句であることを強調しています。芭蕉は実景と伝統を重層化することで、この句のよさを補強したいのでしょう。
しかしながら、これには無理があります。何故なら近江で春を惜しむという主題にふさわしい和歌が見つからないからです。苦し紛れに有名な平忠度の、
が引かれるくらいです。確かに新古今時代に春の歌が流行しており、
唐崎や春のさざなみうちとけて霞をうつす志賀の山かげ(秋篠月清集502番)
と詠まれていますが、それにしても惜春の歌は見当たりません。
要するに古歌の世界では、歌枕としての近江に惜春のイメージは認められないのです。近くの逢坂の関にしても、蝉丸が、
と詠んで以来、人が別れる(別れを惜しむ)場所でした。それにしても別れを惜しむのは都人であって近江の人ではありません。また季節も春に限定されません。もともとこの句は「望湖水惜春」という題で詠まれたものですから、実のところ尚白の非難は完全には払拭されていないことになります。