🗓 2021年04月24日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

初めて会津若松を訪れた時、なんだか懐かしさを感じたことがありました。食べ物からお土産の工芸品やお菓子に至るまで、京都と似た何かを感じ取ったのです。その最たるものが棒鱈でした。これは京都名物「いもぼう」として平野屋で初めて食べた料理だったからです。それが会津若松にもあったのには正直驚きました。
 考えてみると、参勤交代によって、江戸の文化が各地に伝播することもありました。あるいは北前船によって、北海道の産物(乾物)が京都にも会津にも運ばれていたこともわかりました。そこでもう少し会津と関西の関係を調べているうちに、蒲生氏郷という人物に辿り着いたのです。どうやら氏郷が両地をつなぐキーパーソンのようです。
 近世初期の会津藩は、藩主が何度も交替させられるという歴史があります。具体的には葦名→伊達→蒲生→上杉→蒲生→加藤→保科(松平)と目まぐるしく入れ替わっています。その中で注目すべきは、関西から派遣された蒲生氏郷でしょう。もともと蒲生というのは、額田王の「君が袖振る」(万葉集)歌で有名な滋賀県蒲生郡の地名です。そこで生まれた氏郷は、幼少の頃は織田信長のところに人質として預けられました。
 さすがに信長は氏郷の非凡な才能を見抜き、娘の婿にしています。はたして成人した氏郷は、数々の武功をあげました。本能寺の乱後は豊臣秀吉に仕えますが、その秀吉からも一目置かれています。天正18年(1590年)、氏郷は36歳の若さで会津藩42万石の城主として奥州に赴任しました。鶴ヶ城という名は、氏郷の幼名鶴千代に因んで命名されたとも、蒲生氏の家紋である舞鶴からともいわれています。また氏郷は高山右近と同様、キリスト教に入信したキリシタン大名としても知られています(洗礼名はレオン)。当然会津藩にも教会(天子神社)やセミナリオ(学校)などが設けられました。
 氏郷は武力だけの人ではありません。藩の財政立て直しのために、積極的な経済政策も打ち出しています。その一環として、かつて城主であった近江日野・伊勢松阪から近江・松阪の商人を招聘し、さらに手工業発展のために京都などから職人を招聘しています。それに伴って、京都・近江・松阪などの文化が一度に大量に会津に入り込んだのです。
 そもそも「若松」という名称にしても、氏郷が慣れ親しんでいた蒲生郡にある若松の杜から名付けられたといわれています。これは近江商人を会津に根付かせるための手法だったようです。そこで定着したものが、現在会津の特産品となっているのです。たとえば会津塗(漆)は、近江の日野椀作りの木地師や漆職人が伝えたとされています。その漆の実から採れる蝋から会津絵ろうそくが作られました。そればかりか名物起き上り小法師も、信長のダルマ信仰にならって氏郷が奨励したとされています。同様に張り子の天神様人形も、氏郷が京都から職人を招いて下級武士に技術を学ばせ、会津の名物として商わせたといわれています。
 酒造にしても、氏郷が近江から杜氏を連れてきたとされています。酒造りの麹は、味噌や醤油の製造にも発展しました。本郷焼にしても、築城に際して連れこられた播磨の瓦職人が瓦を焼いたのが始まりのようです。会津木綿も、氏郷が綿花の栽培を奨励してできたものでした。伊勢屋の椿餅も、氏郷が松阪から連れてきた菓子職人の技術を伝承しています。だから伊勢屋なのです。詳しく調べてみれば、氏郷が持ってきたものはまだまだ見つかるはずです。
 その他、氏郷の功績として忘れてならないのは、千利休が切腹させられた後、後継者の千少庵を会津に呼び寄せて保護したことです。それは氏郷自身、利休の七哲の一人と称される茶人であったからですが、もしこの時氏郷が手を打っていなかったら、今日のような千家茶道の隆盛は望めなかったでしょう。もちろんそのお蔭で、会津の文化として茶道も根付いているのです。
 文禄の役(1592年)で九州に出兵した氏郷は、それ以降体調を崩し、文禄4年2月7日に伏見の邸で惜しまれながら病死しました(享年40)。死因は癌だとも秀吉が毒殺したともいわれています。辞世の歌は、

限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風

でした。寿命を全うできずに死ななければならない氏郷の無念さが詠みこまれているようです。氏郷の亡骸は、京都北区大徳寺黄梅院(旧昌林院)に埋葬されました。会津の興徳寺にある墓(五輪塔)は、氏郷の遺髪を埋葬したものです。生まれ故郷の蒲生郡日野町の信楽院にも、同様に氏郷の遺髪塔があります。

氏郷の命日には、毎年黄梅院の墓前で蒲生氏郷公顕彰会(日野市・松阪市・会津若松市)主催の法要が盛大に営まれています。会津若松市からも市長をはじめとして毎年多くの人が訪れているようです。氏郷が領主だった期間はたった5年間でしたが、氏郷が撒いた商工業の種は、今もしっかり会津若松に根付いていることがわかります。やはり氏郷は、会津の発展に貢献した大恩人だったといっていいでしょう。