🗓 2021年06月05日
吉海 直人
高校の国語に「論理国語」が新設されることに対して、文学がますます疎かにされることを危惧した日本文学の諸学会は、団結して反対を表明しています。そんな中、令和2年4月20日の読売新聞朝刊「地球を読む」欄に、山崎正和氏の記事が掲載されました。山崎氏の文章は、必ずしも「論理国語」についての批判として書かれたものではないようですが、自ずから批判として読めます。
冒頭に問題提起がなされているので、まずそれを紹介しましょう。
いかがでしょうか。これを読んだ私は、これでは言葉足らずではないかと思いました。まず「今日も雨だ」以下の短文を、「論理的な文章」と受け取った人は、そこで罠にはまっています。その後で山崎氏が「叙事的な表現」と形容しているのは、これを「論理的な表現」とは考えていないからに他ならないからです。そう思って読み進めると、「解釈する人」とあります。さてこれは誰を想定しているのでしょうか。「論理国語」推進派の人でしょうか、それとも国語が分かっていない新聞の読者(罠にはまった人)でしょうか。
それに続いて「後段の真意」とあります。この「真意」は、一体誰の真意なのでしょうか。文章を書いた人でしょうか、それともそれを解釈した山崎氏でしょうか。あるいは特定の誰かではなく、普遍的な意味でしょうか。どうやら山崎氏は、「天気が悪い」は「今日も雨だ」の「同義語」という表層的な解釈で済ませるのではなく、その裏にある心の内まで読み取らなければならないことを言いたいようです。だからそれを「叙情的な感想」としているのでしょう。
これを「論理的な文章」と対比させると、「叙情的な感想」はまさに「文学的な文章」と言いかえられそうです。最後に「常識」とありますが、それも山崎氏にとっての戦略的な常識のように思えてなりません。いずれにしてもこの文から、「叙情的な感想」の重要性、逆に「論理国語」の不十分さは十分伝わりました。
さて私は、最初に言葉足らずだと書きました。というのは、この文章の背景に「雨の降る日は天気が悪い」ということわざめいたものがあると思ったからです。ただし明治以前には遡れないようなので、明治以降に定着した表現と考えられます。意味は「あたりまえのこと」ですが、これを踏まえると「同義語の反復」というより、全体がパロディとしても読めます。
もちろん日本には、『古今集』以来の情景一致の技法が確立していました。表面では自然を詠じているようでありながら、その裏に人事を詠み込むという二重構造です。それを踏まえると、「雨」は「涙」の喩となるので、「人が泣いている」ことを読み取らなければならなくなります。だからこそ「鬱陶しい」とか「気が滅入る」(気分が晴れない)という解釈も可能なのです(不快指数だけの話ではなくなります)。
次に細かなことに注目すると、「今日は」ではなく「今日も」になっていることが目につきます。「も」とあるのだから、きっと昨日も(一昨日も)雨だったのだろうという予測がつきます。雨が降り続く気候というと、即座に梅雨のシーズンが想起されますね。もしそうなら、それは決して個人の感想ではなく、みんなが共有している認識に広がります。それとは別に、長崎生まれの私は、クールファイブの「長崎は今日も雨だった」がすぐに頭に浮かびました。
「天気が悪い」にしても、仮に「天気も悪い」とあったら、天気以外に何が悪いのだろうと考え、気分も悪いことに思い至ることでしょう。ところで、この「天気」というのは使い勝手の悪い言葉で、いいか悪いかどちらかにしか使えません。ただし普通に「今日は天気だ」という時は、快晴(プラス)を意味するようです。ややこしいですね。
かつてNHKの天気予報では、「明日はいい天気になります」といってはいけなかったとのことです。何故かというと、「いい」に価値判断が含まれるからです。というのも、中には晴れない方がいい人もいるので、その人のことを配慮したのだそうです。逆に雨だからといって、悪い(マイナス)と感じる人ばかりではありませんよね。
付け加えると、「天気」という言葉は、もともと気象用語ではありませんでした。「天」というのは人知の及ばない神の世界に属するものです。「雨」は「天」にも通じるのです。そこから比喩的に「天帝」「天皇」をも意味するようになってきました。そうなると「天気」は、天皇のお気持ちという意味にもなります。
天徳四年に開催された「天徳内裏歌合」で、「天気左にあり」ということで兼盛の「しのぶれど」歌が勝った話は有名です。もし「天気が悪い」を、「天皇のご機嫌が悪いこと」と答える学生がいたら、きっと私は大喜びすることでしょう。「文学的な文章」はこんなにも奥深いものなのです。