🗓 2021年09月18日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「彼岸」については「春分の日」のコラムでも触れましたが、あらためて「彼岸」についてお話しします。「彼岸」は春分と秋分と、年に2回訪れます。春分・秋分の日を中心に、前後3日計7日間が彼岸です。特に最初の日を「彼岸の入り」と称しています。もともと仏教用語で、現世である「岸」に対して、あの世(死後の世界)が「彼岸」というわけです。だからご先祖様の供養として、「彼岸」にお墓参りを行っているのです。
その「彼岸」に合わせて、墓地一面に咲く赤い花が「彼岸花」でした。ここで大きな疑問が生じます。「彼岸」は年に2回あるのだから、「彼岸花」も年に2回咲くのかということです。その答えはノーですね。残念ながら「彼岸花」は秋にしか咲きません。春に咲く花で「彼岸」を冠しているのは、「彼岸桜」でしょうか。
「彼岸花」の学名は、「リコリス・ラジアータ」です。「リコリス」はギリシャ神話に出てくる海の精から付けられた名で、「ラジアータ」は放射線状に広がっている花の形から命名されたものです。また英語で「レッドスパイダーリリー」というのは、細い花びらが蜘蛛の足に似ていることからなのでしょう。
その「彼岸花」に別称があること、みなさんご存じですよね。はい「曼殊沙華」です。これはサンスクリット語の「マンジュサカ」(赤い花)の音を日本語に移したものです。その意味では、かつて山口百恵が歌った「マンジューシャカ」の方が原点の発音に近いことになります。これは法華経序品に出てくる花で、「天上の花」とされています。
面白いのは、日本各地にこの花の別称がたくさんあることです。よく使われているのは「葬式花」「墓花」「死人花」「地獄花」「幽霊花」など、お墓のイメージを引きずっているものです。「ハイビスカス」にしても沖縄では「仏桑華」と称されています。お盆に咲くので「盆花」とも呼ばれています。その他、「火事花」「灯籠花」「狐の松明たいまつ」「狐の提灯」「手焼花」というのは、花が燃え盛る焔に見えることからでしょう。さらに「蛇花」「狐花」「捨て子花」「剃刀花」などもありますが、ほとんど不吉なものばかりですね。開花時にいわゆる葉がないことから、「葉見ず花見ず」という別称もあります。そのことを子規は「秋風に枝も葉もなき曼珠沙華」と詠んでいます。ひょっとすると、葉が出る前に「先ず咲く」というのが曼珠沙華の起源なのかもしれません。
他に「毒花」「痺れ花」「喉焼花」などといわれているのは、鱗茎(球根)にアルカロイド系の有毒成分が含まれているからです。「彼岸花」にしても、食べるとあの世へ行くからという説もあります。その中に一番多く含まれている「リコリン」という毒の成分は、学名の「リコリス」に由来するものでした。お墓や田んぼの畦道に彼岸花が植えられているのは、この毒を利用して稲をモグラやネズミの害から守るためでした。お墓にしても昔は土葬ですから、埋葬した遺体を動物や虫に荒らされないためだったのです。
もっとも、「彼岸花」の球根はデンプンを多く含んでいます。そのため上手に毒抜きすれば、食用にもなりました。おそらく昔の人は一石二鳥を狙って、というか飢饉に備えて、いざという時のために、田んぼに「彼岸花」を植えたのでしょう。もちろん毒は薬にもなります。鱗茎は生薬としても有用でした。最近はアルツハイマー病の治療薬としても使われているとのことです。
最後に「彼岸花」最大の謎についてお話しします。それは室町時代以前の資料に出てこないことです。有史以前に日本にもたらされたとする説もあるのですが、その名前がどこにも見られません。室町時代(1400年代)になって、ようやく「曼殊沙華」という名が出てきます。一方の「彼岸花」は、江戸時代以降にしか用例が見当たりません。
唯一『万葉集』2480番にある「壱師の花」が「彼岸花」のことだとする説があるのですが、なにしろこの1例以外に用例がないので、到底認められません。果たして平安時代の人は、「曼殊沙華」を目にしていたのでしょうか。もし見ていたとすれば、それをなんという名前で呼んでいたのでしょうか。