🗓 2022年03月12日
吉海 直人
道を歩いていて、路傍に「石敢當」と彫られた石柱をご覧になったことはありませんか。これは日本全国に広まっているので、気が付かないうちにどこかで目にしているかもしれません。特に沖縄や鹿児島出身の人は、知っている確率がぐんと高いはずです。というのも、日本では沖縄と鹿児島に圧倒的に多いからです。特に沖縄には一万基以上もあって、なんと日本の「石敢當」の九割を占めています(鹿児島は千基程度)。会津若松にはないかもしれませんね。
気になるのは「石敢當」が漢文で書かれていることです。そこで起源を調べてみると、やはり中国由来のものでした。その初出は紀元前の前漢の史游撰『急就篇』とされています。姓名が列挙されている中に「石敢當」という名が出ていました。これについては実在の人物というより、「當たるところ敵無きを言うなり」という意味に解釈されています。ここから「石敢當」という勇士(将軍・力士)説が広められたのでしょう。ではなんと読むかというと、沖縄ではこれを「いしがんとう」と読んでいます。沖縄以外では音読みで「せきかんとう」と読まれることも少なくありません。
由来とは別に、宋の王象之撰『與地紀勝』という歴史書に「石敢當碑」項があります。北宋の張緯が福建省の長官として赴任した際、そこで銘文のある碑を見つけました。そこには「石敢當、鎮百鬼、壓災殃」云々とあり、唐代(770年)に「石敢當」を設置して祓邪・招福を祈願していたことが記されていました。「石敢當」は魔除けの石神信仰(道教由来)だったのです。
現存している中国最古の「石敢當」は、福州市立博物館にある紹興年間(1140年頃)のものとされています。それが東アジア貿易によって、中国から東南アジア(台湾・シンガポールなど)や日本にも伝播したのでしょう。沖縄の民話にも、中国伝来説(勇者説)が語られています。
いつごろ沖縄に持ち込まれたのかはわかりませんが、琉球を訪れた冊封副使の周煌が1756年に著した『琉球国志略』に、「片石を立てて石敢當と刻す」と記されていることから、少なくとも江戸時代中期には人目につくほど流布していたことがわかります。というより、おそらくその頃には中国では「石敢當」信仰が廃れており、だからこそ中国人の目に奇異に映ったのではないでしょうか。
ということで、現在では沖縄が世界最大の「石敢當」設置地域になっています。沖縄に次いで鹿児島に多いのは、かつて薩摩藩が琉球王国を支配していたことによると思われます。なお「石敢當」が沖縄の文化として定着したことには、二つの理由が考えられます。一つは石の信仰あるいは魔除けの信仰が受け入れられる土壌があったことです。特に「石敢當」はシーサとセットになっており、現在では土産物としても販売されていることで、それが積み重なって膨大な数になったのでしょう。
それについて民俗学者の柳田国男は、「はかり石」(『海南小記』所収)の中で、鹿児島で見た「石敢當」のことを、沖縄古来のビジュル(石の信仰)が元になっていること、それは本土に見られる「はかり石」と通じるものだと説いています。確かに道祖神や塞の神信仰と類似しています。ただし「石敢當」は、石にそう刻まれたことこそが重要なのではないでしょうか。
もう一つの理由は、道路を自動車が頻繁に走るようになったことです。本来の信仰は、目に見えない魔物(邪鬼)が家に入り込むのを防ぐためのものでした。魔物は直進するということで、辻の路傍や三叉路(T字路・Y字路)の突き当りに設置されていました。それがそのまま自動車に置き換えられ、車が突進して家や塀にぶつかることを防ぐ役割を担ったのでしょう。要するに近代の「石敢當」は、対象が魔物から自動車にとって代わっているのです。確かに自動車は魔物でもありますよね。
だからこそ信仰とは無縁に、全国の自動車事故多発の場所、あるいは起こりそうな場所に、記念碑の意味も含めて設置され続けているのではないでしょうか。そういった危険な場所には、昔から石が置かれていたはずです。ただしそういった石に「石敢當」とは彫られていませんでした。
それがいつからか、「石敢當」と彫ってあった方が効果があると思われたことで、「石敢當」が増加していったわけです。ですから案外新しい石碑が多いと思われます。お寺の門前にも見かけますが、これは鬼門封じにも使われています。みなさんの近くに「石敢當」があるかどうか、是非探してみてください。