🗓 2022年03月05日
吉海 直人
もう終わってしまいましたが、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公ですから、当然、絶世の美女といわれた三女の玉も登場しました。歴史上の玉は16歳で細川忠興の正室になりますが、20歳の時、父光秀が本能寺の変を起こしたことで、反逆者の娘として秀吉から2年間山中に幽閉されました(忠興は離縁しませんでした)。
クリスチャン作家として有名な三浦綾子さんの作品に、『細川ガラシャ夫人』(1975年刊)という小説があります。ご承知のように細川ガラシャもカトリックの信者だったので、書いてみようと思ったのでしょう。この小説の中に、夫である細川忠興が、妻の玉を慰めるために、3年がかりで扇型の歌留多を手作りして贈るというエピソードが書かれています。忠興も玉を愛していたのです。そしてこの歌留多は、今も細川家に残っていると記されています。
なるほど細川家には、忠興が手作りしたとされる扇面歌留多が伝わっているので、それは事実だったのだと信じる人がいてもおかしくありません。仮にそれが本当だったら、ガラシャは1600年に亡くなっていますから、それよりずっと前に作られたことになります。これは大変なことでした。というのも、現存する最古のかるたは滴翠美術館に所蔵されている道勝法親王筆かるたとされているからです。これは1620年以前とされていますから、それより20年以上も前に作られた最古のかるたとなります。
それだけではありません。道勝法親王筆かるたは、一般的な方形かるたですが、忠興の作ったかるたは扇型(変形かるた)だからです。もしこれが認められると、貝型や方形のかるたより先に、扇型のかるたが作られたことになります(大河ドラマには出てきませんでした)。
もちろん、たとえこれが忠興の自筆であっても、ガラシャのために作ったものでなければ問題はありません。というのも忠興は1646年没ですから、かるたの成立も1620年以降の可能性が十分あります。ガラシャに贈ったという話自体、三浦綾子の創作である可能性が高いようです。そのあたりのことを、細川家の展示図録に詳しく書いていただけないものでしょうか。
ところで、「細川ガラシャ」という名前に違和感はありませんか。江戸時代以前は、結婚しても実家の姓(旧姓)を名乗っていました。ですから明智玉は細川家に嫁いでも、生涯明智玉のままです。まして「ガラシャ」(神の恵みという意味)はクリスチャンネームですから、通称でしかありません。要するに明智玉は一度も「細川ガラシャ」とは呼ばれていなかったのです。では明智玉はいつから「細川ガラシャ」と呼ばれるようになったのでしょうか。詳しいことはわかりませんが、どうも時代が下って明治以降にキリスト教が解禁になってから、クリスチャンたちが意図的に「細川ガラシャ」という呼び名を広めたという説が有力なようです。三浦綾子にしても、「細川ガラシャ」という名前が彼女の人生にふさわしいと思ってタイトルにしたのでしょう。
実は、玉がクリスチャンになったのは35歳の時でした。それは夫の忠興にとっては非常に困ったことでした。ガラシャ自身にも2つの規制が生じています。1つは、クリスチャンを弾圧する夫の忠興と離婚できなくなったことです。もう1つは、石田三成に人質にとられそうになった時、自害することができなかったことがあげられます。ですからやむなく家臣に自らを殺させ、さらに邸に火を放って遺体も残らないように焼かせています。それは関が原の合戦の2ヶ月前、慶長5年7月17日(新暦では8月25日)のことでした(享年38)。この日は「インスタントラーメン記念日」でもあります(『暮らしの古典歳時記』参照)。
焼け跡から拾い集められた遺骨は、堺のキリシタン墓地に葬られました(後に大阪の崇禅寺に改葬されています)。ガラシャは殉教というより、細川家のために命を捨てたのです。そのガラシャが遺した辞世の歌は、
でした。