🗓 2022年04月23日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「夏も近づく八十八夜」で始まる「茶摘み」という歌はご存じですよね。これは京都府宇治田原の古い茶摘歌がもとになっているとのことです。では「八十八夜」はどうでしょうか。これは立春から数えて88日目に茶摘みを始めるということです。2022年は5月2日が八十八夜です。ということで、今回はお茶の話をしましょう。ツバキ科の茶の木は、帰化植物とされています。もともと亜熱帯地域に分布するものですから、日本でも寒い東北以北では育ちませんでした(会津若松にはありますか?)。ではいつごろ誰が日本に持ち帰ったのかですが、残念ながら詳しいことはわかっていません。
 ただ茶の葉から製造される「茶」には、カフェイン・カテキン・テアニン(アミノ酸)・ビタミンCなどが豊富に含まれているので、おそらく古くは漢方薬として中国から輸入していたと思われます。と同時に、茶は仏道修行の常備薬(眠気覚まし・ビタミンC補給)としても重宝されていたので、奈良時代には遣唐使や遣唐僧によって仏教と一緒に日本に持ち込まれたと思われます。
 確かなところでは、平安初期の嵯峨天皇の時代があげられます。805年に帰朝した最澄が茶の種を持ち帰って比叡山に植えたとか、翌806年に帰朝した空海も、中国から持ち帰った茶を嵯峨天皇に献上したとされています。また嵯峨天皇は嵯峨野の離宮に空海を招き、そこで茶を飲みながら終日語り合ったことを漢詩に残しています(『経国集』)。
 最古の献茶記録としては、『日本後紀』弘仁6年(815年)4月22日条に、嵯峨天皇が近江国に行幸された折、天智天皇ゆかりの梵釈寺で僧永忠が茶を献じたという記録があります。こうして平安時代には茶の栽培が始められていたのでしょうが、本格的な栽培は下って鎌倉時代になってからでした。
 臨済宗の開祖である栄西は二度も宋に渡って修行し、お茶を持ち帰っただけでなく、中国で経験した飲茶の習慣をも日本にもたらしました。栄西の著わした『喫茶養生記』(1211年)には、お茶の効能だけでなく栽培法まで記されています。歴史書『吾妻鏡』によれば、二日酔いで苦しんでいた三代将軍源実朝に『喫茶養生記』を献上して、喫茶の効能を説いたことが記されています。
 その後、華厳宗の明恵上人は、京都栂尾とがのおの高山寺で茶の栽培を始めました。そこから徐々に各地でも茶の栽培が行なわれるようになったとされています。中でも京都府宇治の酸性土壌と湿気が茶の栽培に適しており、足利幕府以降信長や秀吉にも保護され、そこで良質の茶(宇治茶)が生産されました。その一方、15世紀後半に村田珠光がわび茶を創出し、それが武野紹鷗たけのじょうおうを経て千利休によって「茶の湯」として完成されます(本場の中国や朝鮮では茶道のような発展はしていません)。
 ところでみなさん「茶色」って変だと思いませんか。お茶というと緑色を思い浮かべるのに、どうしてブラウンなのでしょうか。それは長い茶の歴史を知れば納得するはずです。もともと古い時代の茶は、緑ではなくまさに茶色でした。今でもほうじ茶やウーロン茶は茶色ですよね。それがなんと江戸時代中期に青製煎茶製法が考案されたことで、現在のような緑色のお茶になったのです。それを緑茶と称するのは、もともとお茶が緑色ではなかったからでした。
 ここでみなさんに質問です。紅茶と日本茶は同じ茶の葉から作られたものでしょうか、それとも別の葉から作られたものでしょうか。紅茶の生産地はインドとかセイロン(現在はスリランカ)ですから、全く違うもののように思っている人もいるかと思います。ところがどうやら同じ茶の葉なのです。英語の「ティ」も茶(チャ)から変化したものです。
 では何が違うのでしょうか。それは製法というか、発酵させるか否かの違いでした。日本のお茶は発酵などしていませんよね。それに対して紅茶は完全発酵させて作ります。ウーロン茶は半発酵です。それによって色も味も変わるのです。
 かつてヨーロッパでは、発酵させていない日本の緑茶が輸入されていました。特にイギリスでは緑茶が好まれたようです。ところが紅茶が製造されると、緑茶より好まれるようになり、日本からの輸入は大幅に減少してしまいました。そしていつの間にか、イギリス人は昔から紅茶を飲んでいたと錯覚するようになったのです。
 さあ、みんなでお茶を飲みましょう。