🗓 2022年07月23日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

カレンダーを見ると、2022年は8月7日が立秋になっていました。立秋というのは、太陽黄経が135度になる日のことだそうです。なんだかよくわからない説明ですが、要するに夏至(90度)と秋分の日(180度)の真ん中ということで、その日が秋の始まりとまります。
 ただ立秋になったからといって、急に涼しくなるわけではありません。むしろ暑さの頂点を過ぎたと思った方が納得できるかと思います。頂点を過ぎるのですから、当分暑さはやわらぎません。この暑さは「残暑」と表現されています。それを受けて手紙の挨拶文も、立秋を過ぎると「暑中見舞い」から「残暑見舞い」になります。
 ところで質問です。みなさんは何によって秋の訪れを感じますか。目で見てそれとわかるのは、雲の形の変化でしょうか。あるいは赤とんぼが飛んでいるのを見つけた時でしょうか。つくつくぼうしが鳴きだした時とか、夜にこおろぎの声を聞いた時に、ああ秋だなあと感じる人もいるようです。これは聴覚による季節の知覚ですね。
 一般には、肌で涼しさを感じた時という答えが多いようです。昼間の暑さは変わらなくても、夕方になって涼しい風が吹くと、ああ秋が近づいているなと感じるようです。古く平安時代の貴族は、「風の音」によって秋の訪れを感じていました。『古今集』秋上の巻頭には藤原敏行の、

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(169番)

という歌が置かれています。秋の部の最初ですから、当然「初秋」の歌です。詞書を見ると「秋立つ日よめる」と記されていました。これこそ立秋の日に詠まれた歌なのです。

敏行は、秋の訪れは視覚的にはっきり認識することはできないけれども、「風の音」によって感じられると歌っています。「おどろく」とあっても、決してびっくりするわけではありません。はっと気づくという意味です。完了の助動詞「ぬる」にしても、ここでは詠嘆に近い用法です。むしろ読者の共感・同意を求めているのかもしれません。
 そもそも「風」は一年中吹いていますよね。それにもかかわらず、和歌で「風の音」とあったら、それはほぼ秋に限定されていると思って下さい。「風の音」は秋にもっともふさわしいとされているのです。それは単に聴覚だけではありません。肌で涼しさも感じ取っているのですから、同時に触覚も働いています。聴覚と触覚と二重に秋を感知しているのです。
 もちろん立秋の少し前でも、夕方の涼しさは感じられます。百人一首で有名な藤原家隆の、

風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける(新勅撰集192番)

は水無月祓い(夏の終わり)の歌ですが、夕方のならの小川をそよぐ風から、家隆は既に秋を看取しています。風の涼しさに秋の訪れを知覚しているのに、暦の上ではまだ夏(6月)という季節のずれがこの歌の主眼なのです。ですから「夏のしるし」とあっても、決して夏が主役ではありません。

 要するに季節の変わり目(境界線)が、和歌では非常に重要なのです。これが四季に富んだ日本の季節感の特徴と言えます。みなさんも季節の変わり目には十分注意を払ってください。