🗓 2022年08月06日
吉海 直人
作詞家・加藤まさをが「月の沙漠」を発表したのは、大正12年3月の「少女倶楽部」誌上でした。そこには自身が描いた挿絵も付いています。同年九月、関東大震災が勃発しますが、その前後に若手の作曲家・佐々木すぐるが曲を付けました。その後、昭和2年にラジオで放送されたことで評判となり、童謡として今日まで長く歌い続けられています。
作曲した佐々木はその時のことを、
と語っています。佐々木のいう「あのころ」とは大正中期のことで、ちょうど「さすらいの唄」(北原白秋作詞・中山晋平作曲)や「船頭小唄」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)が流行していました。そこで佐々木も、「月の沙漠」をそれに類した流行歌として作曲したというのです。流行歌にならなくてよかったと思わないではいられません。
肝心の作詞ですが、「月の沙漠」という曲名から何を連想しますか。月に沙漠があると思った人はいませんか。これは沙漠を照らす月のことで、アラビアンナイトの世界が想像されます。ラクダに乗った王子様とお姫様、若い二人は一体どこをめざして旅をしているのでしょうか。曲が短調でしかも二人は無言ですから、祖国から恋の逃避行をしているという意見もあります。月が強調されていることから、死出の旅という解釈も可能です。極端なものとして、マリアとヨセフがベツレヘムに向かっているところという大胆な推理もありました。すべては読者の想像に委ねられているのです。
いろいろロマンチックな物語を幻想していたら、アラビア通の本多勝一が、子供たちの夢を壊すような批判記事を、昭和40年の朝日新聞に掲載していました。それは、
- 「月の沙漠」の2番に「金の甕」と「銀の甕」が出ているが、遊牧民は水を運ぶのに水甕ではなく革袋を使う。金属製の甕では直射日光によって中の水が煮立ってしまう。
- 王子と姫が二人だけで旅をしていたら、たちまちベドウィン(遊牧民族)に略奪される。
- 「月の沙漠」の4番に「朧にけぶる」とあるが、砂漠で月が「朧にけぶる」のは、猛烈な砂嵐が静まりかけるときぐらいに限られる。
というものです。ただし夜に旅しているのですから、水が煮立つことはありません。確かに二人だけの旅は危険ですね。中でも「朧月」は湿度が高い時に出るので、湿度の低い砂漠には似合いません。この手厳しい批判に対して加藤は、
と答えています。加藤の念頭にあったのはやはりアラビアの情景だったようですが、もちろんアラビアに行ったことはないし、沙漠を見たこともなかったので、不確かなというか、沙漠の気候をよく知らないままに作詞したというわけです。
画家でもある加藤は、歌詞と一緒にラクダの挿絵も描いていました。それを見ると、アラビアにいるヒトコブラクダではなく、中央アジアにいるフタコブラクダでした。これも加藤の知識不足によるものだったようです。そんなこんなで、今度は加藤が日本のどこを思い浮かべて作詞したのかが話題になりました。
候補地としては、加藤の故郷(静岡県藤枝市)に近い焼津市の吉永海岸と、加藤が結核療養のために訪れていた千葉県の御宿海岸の二つが有力視されています。そこで御宿町では加藤に手紙を書き、
という返事をもらいました。こうして御宿町はラクダに乗った王子と姫をモチーフにした記念像を建立し、またその近くに「月の沙漠記念館」まで建てたのです(曲も流れます)。
これについて加藤は、
と笑いながら答えたそうです。それどころか後付けで、
と解説しています。こうして幻想的に作詞された「月の沙漠」が、いつしか具体的な千葉県御宿海岸に固定され、町の観光に貢献することになったのでした。