🗓 2023年01月21日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

かつて流行ったなぞなぞに、「口の中に咲く花なあに」というのがありました。答えはもちろん「ツバキ」です。ということで今回は「椿」について考えてみましょう。
 実は私は、これまで「椿」にあまり興味がありませんでした。いろいろ面白そうなネタがあることは知っていましたが、なかなか食指が動かなかったのです。何故かというと、私の専門分野である平安朝文学に「椿」がほとんど登場していなかったからです。勅撰集に詠まれてもいないし、『源氏物語』にもわずかに「椿餅」が出ているだけです。どうも「椿」は、平安人には好まれなかったようなのです。
 その理由はよくわかりませんが、あるいは「椿」が日本原産で、珍しくもないものだったからかもしれません。もっとも『万葉集』には9首も詠まれており、特に、

巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を(54番)
 河上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は(56番)

は有名です。「つらつら椿」というのは、リズミカルな「ツ」音の繰り返しですが、これは花が連なって(列をなして)咲いているという意味です。五木の子守歌にある「つんつん椿」も同様でしょう。

そもそも「椿」(ヤブツバキ)はツバキ科ツバキ属の常緑樹です。この類には「山茶花」や「茶」があります。園芸種の「椿」が増加した現在、「山茶花」と区別できないような品種もたくさんあります。大まかには、花がカップ状になっているのが「椿」で、花が平開するのが「山茶花」です。また花弁が丸ごと落ちるのが「椿」で、花びらが個々に散るのが「山茶花」なので、なんとか見分けがつきます。また花の開花時期についても、晩秋から花をつけるのが「山茶花」で、早春を待って開花するのが「椿」です。木偏に「春」とあるのは、春を告げる花とされていたからなのです。
 「椿」は古く『古事記』仁徳天皇条の長歌に、

其が下に生ひ立てる葉広斎つ真椿其が花の照り坐し其が葉の広り坐すは(293頁)

と読まれており、神聖な植物とされていたことが窺えます。『日本書紀』景行天皇十二年十月条にも、

則ち海石榴樹を採りて椎に作り、兵にしたまふ。(352頁)

と出ています。「椿」の木は成長が遅い分堅いので、武器になるのでしょう。また『出雲国風土記』には、

海石榴(字或は椿に作る)(153頁)

とあって、「海石榴」と「椿」の両方が用いられていたことがわかります。

ここであらためて『万葉集』の表記を調べてみると、

椿 54・56・73・3222
海石榴 1262・4152・4177
海石榴市 2951・3101

とありました。「海石榴市」は長谷寺近くの地名として、現在も残っています。なお中国で「海」のつく語は、海外からもたらされたものが多いので、「海石榴」も日本からやってきた「椿」に、「海石榴」と漢字を当てたとも考えられています。

実は中国で「椿」に当たるのは「山茶」といわれるものでした。ところが七世紀の隋の煬帝の詩に初めて「海石榴」が登場しており、その頃日本から伝来したと考えられます。逆に中国における「椿」は全く別の春野菜の名称でした。要するに「椿」という名称は、日本固有のものだったのです(東南アジアにもあります)。
 この「椿」が美的に評価されるようになるのは、室町時代の東山文化でした。同時に茶の湯の生け花として活用されたこともあげられます。二代将軍徳川秀忠など、積極的に「椿」を栽培させており、「椿」ブームまで巻き起こっています。それもあって「椿」の学名には「カメリア・ジャポニカ」と日本が明記されています。
 この学名については、まず『日本誌』の著者であるケンペルが、初めて「椿」をヨーロッパに紹介しました。それを受けて、イエズス会のゲオルク・カメルがフィリピンから「椿」の種をヨーロッパに持ち帰ったことで、瞬く間にヨーロッパ中に「椿」が広がりました。そこでカメルの名に因んで「カメリア」と命名されたそうです。デュマの『椿姫』に登場する白椿は、なんと日本原産の「椿」だった可能性もあるのです。
 なお花ごとポトンと落ちる「椿」は縁起が悪いので、病人のお見舞いなどには控えた方がいいとされています。またかつては首が落ちるという連想があって、武士は「椿」を嫌ったといわれていましたが、何しろ秀忠が奨励していたのですから、それは誤解のようです。というより、江戸時代に武士が「椿」を忌避していた資料は提示されていません。これは明治以降の俗説のようです。