🗓 2023年03月18日
吉海 直人
「菜の花」については、前に「唱歌「朧月夜」の話」と「「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)」のコラムで少しばかり触れました。しかしそれくらいでは到底語り尽くせないので、あらためて取り上げてみた次第です。
最初に「菜の花」の歴史を調べてみると、かなり早い時代(弥生時代)に中国から伝来した外来植物とされています。ただし古くは「菜の花」とはいっていませんでした。『本草和名』(九一八年)という植物辞典には、中国名の「芸薹(うんたい)」に対して和名は「乎地(をち)」と記されています。「芸薹」という漢字は『延喜式』にも掲載されている由緒あるものです。
一方の「をち」は、一般の文献には出ておらず、実際にそう呼ばれていたかどうかを確認することはできませんでした。また『和名類聚抄』には、「和名久久太知(くくたち)」と出ていました。この「くくたち」は『万葉集』にたった一例だけ、
と出ています。ただしこれは「茎立」の東国方言(東歌)とされているものです。
下って中世の『古今著聞集』には、「くくたちをまへにてゆでけるに、なべのはたより、くくたちの葉のさがりたりけるをみて」と出ていました。これなど食用野菜の総称として用いられていたのではないでしょうか。
次に『色葉字類抄』には「芥子ナタネ」とあって、これが「菜種」の初出とされています。よく知られているのは『竹取物語』で、竹取の翁がかぐや姫のことを「菜種の大きさ」と口にしている例がありましたね。この方が『色葉字類抄』よりずっと早いことになります。ところが『竹取物語』の「菜種」は、固有種の「菜の花」ではなく、やはり野菜(菜)の種の総称(普通名詞)と解釈されているようです。「芥子」にしても、いわゆる「罌粟ケシ」ではなく「芥子菜(カラシナ)」のことのようです。
下って室町時代に用例が見られるのが「油菜」で、『多聞院日記』天正20年(1592年)4月27日条に、「さうめん・はうはん・菜〈はゐ ゐり こふ あふらな〉」と記されています。また『農業全書』(1697年)には、「油菜、一名は芸薹、又胡菜と云。其始だったんより来る。ゆゑに胡菜と云ふなり」とあり、韃靼(モンゴル)から渡来したので「胡菜」と称されていると説明しています(『和漢三才図絵』(1712年)にもあります)。
こうしてみると「菜の花」は、食用と採油用の二つの用途があったことがわかります(近年は切り花用もあります)。普通に考えれば、食用にするものは種は不要ですから、花を咲かせる必要もありません。花を食べるものは「花菜・ナバナ」とも呼ばれています。
それに対して採油用は、開花・受粉させないと種ができません。そうなると「菜の花」「菜種」「油菜」は、すべて採油用の名称ということになりそうです。要するに「菜の花」畑の主な栽培目的は、採油用だったことになります。唯一「芥子菜」は、スパイスとしての辛子の原料でした。
江戸時代前期になると、「菜の花」「菜種」「油菜」「芥子菜」といった呼称がすべて文学にも登場しています。まず「菜の花」は俳諧『御傘』(1651年)に、「若菜〈略〉菜つみは春也。菜の花も春也」と記されていました。「菜種」の早い例はそれより少し遅れて、浮世草子『日本永代蔵』(1688年)に、「ひそかに菜種を蒔きちらして心見けるに」と出ています。
同じ頃、「芥子菜」も俳諧『猿蓑』(1691年)に、「灰まきちらすからしなの跡」〈凡兆〉と詠まれていました。前述の蕪村の句(菜の花や)をはじめとして、俳諧での使用例が多いようですね。なお「菜種梅雨」とは、菜の花が咲く三、四月に降り続く雨のことで、「春の長雨」ともいわれています。
下って明治以降になると、菜種油を採取するために日本全国で積極的に栽培されるようになりました。その際、種がよく取れるセイヨウアブラナに植え替えられたそうです。いずれにしても明治政府の政策によって、畑一面に黄色い花を咲かせる菜の花畑は、日本人の原風景にまでなったといえます。
もっとも、その後すぐに石油ランプやガス灯・電気照明が普及したことで、灯油としての需要はたちまち減少していきました。もちろん食用油としては今も使われていますが、ほとんどは輸入に頼っています。