🗓 2023年04月08日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

鬼貫の句を一つあげるとしたら、「にょっぽりと秋の空なる不尽の山」あるいは「面白さ急には見えぬ薄かな」をあげる人が多いかと思います。しかし私は迷わず「花散りてまた閑かなり園城寺」(高砂子)をあげます。季語は「花散りて」で晩春ですね。「園城寺」(おんじょうじ)は滋賀県にある天台宗寺門派の総本山である長等山園城寺、俗に三井寺(御井寺)と呼ばれている有名なお寺のことです。
 現在も三井寺は桜の名所とされており、境内には千三百本もの桜が植えられているそうです。ただし、三井寺や園城寺で詠まれた有名な和歌は見つけられません。というより、桜は神社仏閣に普通に植えられているものであり、三井寺にこれといって著名な桜があるわけでもないからです。むしろ「長等山」という山号から、「ながら」という地名が想起されます(三井寺の下に長等神社があります)。
 その「ながら」なら、歌にも詠まれています。慈円の、

見せばやな志賀の唐崎麓なる長等の山の春のけしきを(『新古今集』1470番)

に桜はありませんが、おそらく「春のけしき」の中に桜も含まれていることでしょう。はっきり桜が詠まれた有名な歌もあります。時は平家滅亡のさなかでした。教科書にも採られている『平家物語』「忠度の都落ち」には、都落ちの途中で忠度が藤原俊成の邸を訪れ、自ら詠んだ歌が百首ほど記されている巻子を俊成に預け、もしこの中に『千載集』に載るべき歌があれば載せてほしいと頼む有名な場面です。

忠度の詠んだ歌には『千載集』に載せてもおかしくない歌が何首もありましたが、なにしろ敗軍の将の歌ですから、載せるのがはばかられました。そこで俊成はその中から一首だけ、

さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(66番)

を「よみ人知らず」として掲載したという話です。

では忠度は、どのような状況でこの歌を詠じたのでしょうか。『平朝臣忠度集』の詞書には、「為業歌合に故郷花」とあるので、藤原為業の家で開催された歌合において、「故郷花」という題で詠まれた歌だったことがわかります。『千載集』でも「故郷花といへる心をよみ侍りける」という詞書が付けられています。「故郷」というのは忠度の生まれ故郷ではなく、かつて都があった大津京のことです。
 長等神社と長等公園には忠度の歌碑が建てられています。この歌は藤原清輔の、

さざ波や志賀の都は荒れにしをまだすむものは秋の夜の月

を本歌取りしたものですが、「ながらの山桜」とあることによって、「ながら」は桜の名所となりました。そのため三井寺を含めたこの一帯は、江戸時代には花見の客でにぎわっていたのです。

花見というのは陽気に遊ぶものですから、お寺の境内とはいえ、シーズン中は喧騒にまみれていたはずです。ところが桜の花が散り、花見のシーズンが過ぎた途端に人が来なくなり、三井寺は再び静寂に包まれました。「また閑かなり」と「また」が使われているのは、花が咲く前も閑かだったからです。桜の開花によってにぎやかになった寺が、落花とともにもとの状態に戻ったところをうまく表現していますね。何事もなかったかのような佇まいに戻ったとすれば、それこそが三井寺の真の姿ということになります。
 こういった鬼貫の句には、芭蕉の芸術性とは一味違った人間味が感じられます。なお「鬼貫」という俳号は、古今集の撰者である紀貫之にあこがれ、「俳句の貫之」をめざしての命名とされています。
 鬼貫は元文三年(1738)8月2日に78歳で亡くなりました。墓は大阪市天王寺区の鳳林寺にあります。後に陰暦8月2日が鬼貫忌とされました。また平成3年から、伊丹市の公益財団法人柿衛文庫主催で鬼貫賞俳句コンテストが毎年開催されています。これを機に鬼貫のことも覚えてくださいね。