🗓 2023年04月15日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

みなさんは「栴檀は二葉より芳し」という諺をご存じですよね。「栴檀」は発芽のころから香気を放つように、大成する人は幼少のときからすぐれているというたとえです。この諺について国語の問題としてよく出されるのは、「より」という助詞の用法です。
 さてこの「より」は一体どういう意味でしょうか。大きくは二つに分けられます。まずは比較で、「栴檀」と「二葉」を比較して、「栴檀」の方が「二葉」よりも芳しいということになります。英語の「than」ですね。もう一つは英語の「from」に相当するもので、「栴檀」は発芽したての「二葉」の頃から芳しいという意味です。
 もちろん後者、つまり「from」の方が正解ですね。まあ間違える人はいないかと思います。これで終わればコラムの題材にはなりません。この諺にはもっとゆゆしい問題が潜んでいるからです。その前に、この諺の出典というか初出が何かご存じですか。たとえば『撰集抄』(一二五〇年頃成立)という説話集に、

栴檀は二葉より薫し、梅花は莟めるに香あり

とあります。漢詩のような対句表現になっていますね。ここでは梅も蕾のころからいい薫りがするとされています。

これより少し前の『平家物語』巻一「殿下乗合」で、若い資盛(重盛の次男)が摂政基房と行き会った際、馬から降りませんでした。無礼だというので馬から引きずりおろされたことを祖父の清盛に泣きついたところ、清盛は怒って基房一行に狼藉を働いたのです。
 それを知った小松殿(重盛)が、

凡そは資盛奇怪なり。栴檀は二葉よりかうばしとこそ見えたれ。既に十二三にならんずる者が、今は礼儀を存知してこそふるまふべきに、か様に尾籠を現じて入道の悪名をたつ。不孝のいたり、汝独りにあり。

と資盛を叱咤しているところに「栴檀は二葉よりかうばし」が引用されていました。ただしこれは資盛が栴檀ではないという譬えとして用いられています。

次に『太平記』巻16「楠正成が首故郷へ送らるる事」には、

母、涙を押へ、正行に申しけるは、「栴檀は二葉より百囲に馥し」といへり。汝幼くとも正成の子ならば、これ程の理に迷ふべきか。小心にもよくよく事のさまを思ふべし。

と母が子の正行を諭している中に引用されています。また謡曲『蝉丸』にも、姉の逆髪と弟の蝉丸が巡り合ったところに、

それ栴檀は二葉より香ばしといへり。ましてや一樹の宿りとして、風橘の香を尋めて、花の連なる枝とかや。

と謡われています。

ということで、諺の初出は『平家物語』ということになりそうです。まだこれで終わりではありません。一番大事な問題が残っています。それは何かというと、これまでに何人もの植物学者が、「栴檀」の「二葉」は匂わないと発言しているからです。匂わないのに諺が定着しているのですから、誤解の連鎖を止めるすべもありません。
 どうしてそんなことになったのかというと、一つには「栴檀」そのものに問題がありました。たとえば『日本国語大辞典』には「植物「びゃくだん(白檀)」の異名」とあって、「栴檀」は「白檀」のこととしています。「白檀」は香の原料の一つですから薫りがあって当然です。しかしこの説明は誤りを含んでいるのようで、「栴檀」と「白檀」は別物とすべです。加えて、たとえ「白檀」であっても、その「二葉」に薫りはないそうなのです。私も「栴檀」の葉を嗅いでみましたが、まったく薫りはありませんでした。
 そもそも香の原料は日本には自生していません。すべて温暖なインド・東南アジアから輸入していました。それだけ貴重なものだったのです。それは「白檀」だけでなく「栴檀」も同様です。「栴檀」にしてもインドの「栴檀」(白檀)と日本に植わっている「栴檀」では種類が違うからです。
 日本の「栴檀」は古くは「楝あふち」のことだとされています。「あふち」なら『万葉集』で山上憶良が、

妹が見しあふちの花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに(798番)

と詠じています。他に三首詠まれていますが、薫りについては触れられていません。また『枕草子』35段「木の花は」にも、

木のさまにくげなれど、楝の花、いとをかし。かれがれにさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし。

とあって、五月に咲く花とされています。ここでも薫りについては言及されていませんね。

いかがでしたか、インドの「栴檀」と日本の「栴檀」が違っていること(同名異物)、おわかりいただけたでしょうか。それが根底にあるからこそ、インドの「栴檀」を想定してはじめて「栴檀は二葉より芳し」が成り立つわけです。決して身近な日本の「栴檀」と混同してはいけません。